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多様性(1)
令和03年10月29日
教室は静まり返り、二十数人の受講生たちは、それぞれに文庫本を読んだりスマホ画面を見たりしながら、無言で講師の入室を待っていた。研修テーマに魅かれて応募した、年齢も職業もばらばらの、互いに面識のない受講生たちだから、研修開始前から会話が弾むのを期待する方が無理に違いないが、研修テーマは『コミュニケーションの技法』である。人と意思疎通を図りたいという共通の目的で、しかも参加費を負担して集まった意識の高いメンバーであることを考えると、研修開始までの待ち時間に、隣に座った人と軽い会話を交わすくらいの積極性があっていい。それとも、他人と軽い会話を交わすことすら苦手な人たちだからこそ、そんな自分を改善したくて講座を申し込んだのだろうか。茂明が研修の講師を務めて今回で六年目になるが、教室に入る瞬間に感じる受講生同士の心理的距離が年を追って確実に遠くなっていた。
「コミュニケーションは、人に関心を持つところから始まります。人と一口に言いますが、実に色々な人がいます。価値観が違う、趣味が違う、性格が違う、家族関係が違う…つまり多様性です。本日は五人グループに分かれ、少なくともグループのメンバーとは、お互いに深く知り合って頂きます。初対面のメンバーが意識的にコミュニケーションを図ることによって、研修の終了時には友人以上に理解し合っていることを期待します。それではまず、グループ分けをするための進行役を選んで下さい。立候補を歓迎しますよ」
と促されて、誰も反応しないでいると、必ず義務感に駆られたように手を挙げる受講生がいる。これもいつもの展開だった。
「はい、手を挙げた人、お名前を言って前へ出て下さい。立候補という行為は、私が進行しましょうか、という意思表明ですから、これも全体に向けた立派なコミュニケーションです。さあ、他に進行役に名乗り出る人はいませんか?」
と茂明が参加者を見渡したが、わずかな人数の教室でも選挙で勝敗が決まるのは愉快ではないのだろう。瀬川と名乗る青年以外に手を挙げる者はいない。
「では、拍手で承認して頂いて、瀬川くんには進行役としての挨拶をしてもらいましょう」
瀬川は、は?という顔をした。挨拶は想定していなかったのに違いない。
「挨拶は大切なコミュニケーション技術ですよ。簡単な自己紹介と、進行役として皆さんの協力をお願いするという内容になると思います」
「それでは…」
瀬川は照れくさそうに教壇に立ち、
「改めまして、瀬川雅之と申します。昔から、誰も立候補しないと、つい手を挙げてしまう軽率なところがあって反省しています。軽率の報いとして私はグループ編成の進行を担当しますが、皆さんには私を承認した責任として、進行に協力する義務が発生しています。話の流れから推すと、グループを編成する段階から既にコミュニケーション技法の研修が始まっていると考えるべきでしょう。どうかお互いの意見を出し合いながら、全体としてはスムーズにグループ編成が完成するようご協力をお願いします」
瀬川がそう言って頭を下げると、気の利いた挨拶に教室に熱気のこもった拍手が沸き上がった。
「ところで先生、肝心のグループ編成の目的をまだお伺いしていませんが…私はどういう観点でいくつのグループを作ればいいのでしょう」
「そうでしたね。冒頭で、人は多様だということを申し上げましたが、コミュニケーションは多様な集団の中でこそ発達します。例えば多民族の移民国家であるアメリカは、人種も宗教も文化も実に多様な人々で構成されていますから、自分の考えをきちんと表現しなければ相手には伝わりません。子どもの頃からユニークで心を打つスピーチを人前で披露するように訓練されるのは、その必要があるからです。一方、我が国は、全員で同じ型の表現様式に参加することによって均質を維持するスキルを学びます。保育園の発表会で、同じ制服を着た園児たちが、同じセリフを大声で揃って言うことが求められるのは典型的な例でしょう。均質を調和と言い換えれば、欧米には日本から学ぶべき点がたくさんあると思います。反対に多様を個性と言い換えれば、日本はもう少し多様性を意識した自己表現や意思疎通を学ばなければなりません。つまり、グループ編成の観点は…」
「分かりました。多様性ですね?」
瀬川が先回りして言った。
「そうです。皆さんで話し合って、多様性に富む五人のグループを五つ作って下さい」
茂明はそう指示して進行を瀬川に任せ、教室の隅の椅子に腰を下ろした。
「ええっと、皆さん、お聞きになった通り、これから多様なメンバーで構成される五人のグループを五つ作って頂くわけですが、どなたか書記をお願いできますか?」
「はい、私でよければ…」
年配の女性が手を挙げた。
教室の空気がいい雰囲気になった。
こうなれば意見を言うのにためらいはない…が、議論は思いがけない方向に展開して行くことになる。