豪雨(1)

令和05年01月06日

 雨が降り続いている。

 いつもなら、はるか県境の山並みまで見渡せる十二階の窓は、全てが灰色で視界がなかった。

『台風の影響で、南からの湿った空気が秋雨前線に流れ込んだため、ここK町では昨夜から記録的な大雨が降り続いていて止む気配がありません。普段ならお年寄りの散歩コースになっている月ヶ瀬川の河川敷はすっかり濁流の下に沈み、茶色に濁った水が、今にも昭和新橋の橋桁に届く勢いで増水しています』

 壁の大型液晶テレビでは、黒い雨合羽を頭からすっぽり被った若い男性アナウンサーが、町を見下ろせる高台から、緊迫した口調で現地の様子を中継している。時折激しくレンズに降りかかる雨粒と、不気味なベース音のような濁流の音が現場の切迫感を雄弁に伝えていた。

「この分では山が抜けますな」

 赤塚が訳知り顔で言った。赤塚は高みから解説するときの癖で、少し背中を逸らせて腕を組む。

「山が…抜ける…のですか?」

 隣の机からテレビに視線を送って長澤が聞いた。

 東京で生まれ育った長澤は、身近で山が抜けるという現実を見たことがない。三十八歳で厚生労働省から初めて県の課長職として出向したエリート官僚には、机を並べて共に課を統括する、親ほどの年齢の赤塚課長補佐の言っている意味が、実感として理解できなかった。

「私は河川課にも四年ほどいましたからね、分かるんですよ。ご覧下さい、堤防道路はスギ山の裾野を削って作ってあるでしょう?スギやヒノキは根が小さくて雨には弱いのです」

「あ、それは私も聞いたことがあります。確か樹木は伸びた枝の範囲に根を張っているのでしたね?」

「おっしゃる通りです。スギもヒノキも針葉樹で、横に枝を張り出す木ではありません。真っすぐ伸びて加工し易いから、木材としての価値が高い。需要を見込んで国を挙げて植林しました。世の中は多様性、多様性とやかましいでしょう?しかし日本の山はどこへ行っても、麓から山頂まで、杉やヒノキで埋め尽くされています。考えてみればこれほど不自然な景色はありません」

「確かにそうですね。多様性とは対照的な単調な景色です。それにスギやヒノキは実を結ばず、動物を養う力がありませんから、サルやイノシシが畑を荒らすのですよね。ケモノだって人間は怖い。山に食べ物があれば、命がけで町に下りて来たりはしないでしょう。さらにスギやヒノキは秋に紅葉することもないので季節の美しさにも欠けます」

「戦後、国民に、赤い羽根ならぬ、緑の羽根を買わせてまで盛んに植林して、さあ伐採が可能という頃には外国の安い木材が入って来て目論見は外れました。経済成長を果たした日本では人件費が高い。山は峻険で、大量の木材を切り出すには費用がかかる。結局、手入れも不十分なまま、スギもヒノキもいたずらに花粉をまき散らすだけの存在になっています」

「そして花粉症は今や国民病です」

「儲かるのは医者と薬屋とマスク製造業者ですな。国は国民総動員で全国の山にスギやヒノキを植えて、保水力と美観と動物の食糧を奪い、半世紀後に医者と薬屋を儲けさせたことになりますな」

「なるほど。わが保健医療課の重要なテーマの一つである花粉アレルギーの問題は、つまり、人災だったという訳ですね」

「さて、この分では、もう一つの人災が今にも起きようとしていますよ」

 赤塚課長補佐がそう指摘したとき、待っていたようにアナウンサーの声が高くなった。

『たったいま山が崩れました。いや、正にいま崩れています。山肌が樹木ごとすべり落ち、堤防道路を押し流して月ヶ瀬川の濁流に飲み込まれて行きます。映像ではスローモーションのように見えますが一瞬の出来事でした』

「赤塚さんの予想が的中しましたね!」

 長澤が思わず身を乗り出した。

 パソコンに向かっていた二十人余りの課員の目が、一斉にテレビ画面に釘付けになった。

 未曽有の豪雨災害の始まりだった。

 根こそぎ濁流に流れ込んだスギの木が次々と昭和新橋の橋脚にひっかかり、橋はダムのように川を堰き止めた。

『何ということでしょう。橋で堰き止められた濁流は易々と堤防を越え、津波のように人家に襲いかかっています。既にこの地域には避難命令が出ていますから、住民の皆さんは小学校の体育館に身を寄せていらっしゃると思いますが、お年寄りや体の不自由な人が残っていらっしゃらないか、大変気がかりなところです』

 それではここでカメラを小学校の体育館に切り替えましょう…と画面が変わったところで赤塚補佐は長澤課長に向き直り、

「まあ、うちの課としては、心のケアですな」

 と腕を組んで言った。

 高校を卒業して県の職員に採用され、本庁と出先をほぼ定期的に異動しながら、保健医療課の総括課長補佐にまで上り詰めた赤塚には、組織における実務処理については強烈な自信があった。その自信が、二年か三年県庁に出向して本省へ戻る二十歳も年下のエリート国家公務員に対する劣等感を刺激して、

(世間知らずの名ばかり官僚は。私の言うとおりにしていれば間違いはないんだよ…)

 言外にそう言いたげなニュアンスを漂わせている。

 本省から送り出されるに当たって、下級機関の職員の屈折した心理を、先輩官僚たちから十分にレクチャーされている長澤は、

「なるほど、心のケアですか。さすがは赤塚さん、常に先を見通していらっしゃる。確かにおっしゃるとおりですね」

 感心したように赤塚の言葉を繰り返した。

 心のケアか…。

 すぐ背後で交わされる二人の上司の会話を聞いた精神保健福祉係長の高岡は、試合開始のリングを待つボクサーのように身構えていた。

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