豪雨(2)

令和05年01月13日

 その日の午後に設置された災害警戒本部は、月ヶ瀬川の堤防決壊や支流の氾濫、山腹崩壊による土石流の発生や道路の決壊を受けて、翌未明には災害対策本部に切り替えられた。明るくなるのを待って、被災地の状況を調査するために、県警の航空隊が現地に飛び、午前八時前には機動隊員二十人が孤立した地域に派遣されて救出活動に従事した。

 のどかな料理番組の画面上部には、刻々と変わる被害状況のテロップが間断なく流れていたが、正午のニュースが始まると同時に、画面には青いヘリコプターに乗り込む知事の様子が映し出された。白いヘルメットを被った防災服姿の知事は、ヘリに乗り込む前に、カメラに向き直ってわずかに手を上げた。ヘリがゆっくりと旋回しながら上昇すると、機体に描かれた『ふれあい号』という白抜きの文字が灰色の空に遠ざかった…と思いきや、やがてヘリはパタパタと音を立てて同じ場所に戻って来た。

「画面は知事を乗せたヘリが出発する様子と、戻って来た時の様子をVTRの映像を編集してご覧頂いています。ヘリで果敢に現地の視察に向かった島崎知事は、悪天候のため引き返さざるを得なかった模様ですが、そのことが却って、住民の安否を気遣う知事の姿勢と、かつてない豪雨の激しさを物語っています」

 よく通る声の女性アナウンサーがスタジオから報道した。

「なお、ついさっき、防災機動隊が孤立住民六名を救出したというニュースが入りました。現在十二人の機動隊員がヘリで四か所の孤立地域に降下して情報収集を行っている模様です。それではここで救出された住民の声が届いていますので、避難所からお伝えします」

 切り替わった画面に登場したのは、山が抜ける様子を高台から中継していた若い男性アナウンサーだった。

「はい、こちら小学校の体育館に設置された避難所です。昨夜から避難された住民の皆さん三十人ほどが、心細い時間を過ごしていらっしゃいます。ほとんどがお年寄りです。つい先ほど避難所に運ばれたばかりの女性がいらっしゃいますのでお話を伺ってみたいと思います。ええ…お疲れのところ大変恐縮ですが、救助されたときの様子をお聞かせ頂けますでしょうか?」

 毛布で体をくるんだ初老の女性にアナウンサーがマイクを向けると、女性はこわばった表情でマイクを奪い取ってヘッドをポンポンと叩いた。慌ててマイクを取り返そうとするアナウンサーの手をかわし、

「やれ、命拾いしましたです。助けてちょうだぁて、まあ感謝の気持ちしかありません」

 女性は興奮冷めやらぬ息遣いで大きな声で話し始めた。

「まっと早う避難すりゃよかったと後悔しとりますけどが、うちは、お父ちゃんが消防団で、堤防へ土嚢を積みに出かけとりますでしょう。おまけにお婆ちゃんは車椅子使っとりますがね。外は滝のような雨が降っとります。すぐに小学校へ逃げよとお父ちゃんに言われとったですが、川のようになった道路を見ると、情けないことに私もお婆ちゃんも尻込みしてまったです。そのうち停電になって、携帯電話もつながらんようになって、真っ暗な中でお婆ちゃんとふたぁり、手え取り合って、今に助けが来る、きっと助けが来ると言いながら、生きた心地がしませなんだ。いよいよあかんと思ったとき、ドン!と表の戸が破れて、泥水と一緒に懐中電灯を頭につけた救助の人たちがなだれ込んでおいでたです」

 若いもんらはみんな都会へ出て、町に残っとるのは年寄りばっかりですで、心の中で死ぬる覚悟をしとったのは、私らだけではないと思います…という生々しい報告は、そのあとでスタジオに登場して災害弱者対策の重要性を語るスーツ姿の学者の言葉などよりも、はるかに説得力があった。

「これで知事もだいぶ株を上げましたな」

 赤塚補佐は物事を他人と違う視点で解説してみせることが老練な公務員の役割だと考えているらしく、

「この天候でヘリでの視察が困難なことは、秘書課は当然分かってますよ。操縦士にも問い合わせますしね。しかし、こういう場合、防災服姿の知事が勇ましくヘリに乗り込み、やむを得ず引き返して来たという事実を県民に知らせることが重要なんです。マスコミと行政は持ちつ持たれつで、その辺りの呼吸は放送局だって心得ていますから、さきほども、ほら、住民の安否を気遣う知事の姿として報道してたでしょう?ま、知事選を見据えた集票目的の演出ですな」

 見透かしたように言った。

「ほう…そんなものですか…」

 長澤課長は大袈裟に驚いて見せたが、大衆の目を引く場面で熱心なリーダーを演じて見せるのは、知事も総理大臣も国会議員も変わらない。しかし、演技が大衆の目にどう映るかについては慎重でなくてはならないという教訓も長澤は知っていた。

 東日本大震災では、メルトダウンした直後の原子力発電所に空から視察に出向いた総理の行動は、国家の最高責任者の覚悟を示したと評価する意見がある一方で、混乱と多忙を極める現地職員に総理受入れの負担を強いたことを非難する意見と、災害対策本部長である総理が軽々に本部を離れたことを問題視する意見が錯綜して、未だ評価が定まらない。

 さらに震災から五年後には、台風十号の被災地である岩手県和泉町に革靴を履いて視察にでかけた内閣政務官は、

「被災地へ行くのに長靴を履く見識もないのか」

 同行者におぶわれて水たまりを渡る不名誉な映像と共に非難は数日に及び、ネット上では今もその映像を見ることができる。

 二つとも、キャリア組の官僚としては、知っておかなくてはならない事実だった。

「しかし、こうなると、知事に防災服を着せて、ヘリを手配し、放送局に取材要請をする秘書課の担当者の苦労が偲ばれますね」

 長塚課長は当たり障りのない感想を述べて、赤塚補佐を満足させた。

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