豪雨(3)

令和05年01月16日

 選挙のとき以来、壁に貼ったままになっているポスターの中で、紺のスーツを着て、髪を七三に分けた精悍な顔立ちの男性が、力強く指を前に突き出している。カメラ目線の写真は、どこから見ても、見る人の視線を捉えて離さない。上部には爽やかな青い文字で『柴垣貴文』と書かれ、下部には真っ赤な文字で『社会を変えるのはあなたです!』というキャッチコピーが名前より大きく印刷されている。

「いやぁ、シンプルですが、これは何度見ても惹きつけられるポスターですね。社会を変えるのはあなたですと言い切って、あなたの一票ですと言わないところがいい。来年は先生も二期目の選挙ですが、これ以上のポスターを考えるのは至難のわざですよ」

 秘書の池上が、しみじみとそう言いながらテレビのスイッチを入れると、知事を乗せた防災へりが悪天候のために引き返したニュースが流れている。

「これは…知事に先を越されましたな。我々も直ちに現地の視察に出かけるべきですよ」

 池上に促された柴垣は、

「知事ですら悪天候で戻って来たんですよ」

 視察は無理でしょうと答えた。

「我々は車で向かうのですよ。山下モータースにそう言えば、四駆のジープを借してくれるはずです」

 お父様ならきっとそうなさいます…父親の大二郎の代から秘書を務める池上は、ことあるごとに父親の考え方を息子に伝え、まだ四十代の二代目県会議員を立派な政治家に育て上げる使命を自分に課していた。それまで弁護士事務所の事務員として働いていた池上が、請われて大二郎の秘書になったときは、貴文はまだ小学校の六年生だった。心筋梗塞で急死した大二郎の、いわば弔い選挙で貴文を県会議員に当選させたのは、池上の手腕だった。当選の記者会見を節目に、池上は貴文の呼び方を、それまでのボッちゃんから先生に改めた。

「四十六歳でボッちゃんも困るけど、池上さんから先生と呼ばれると、何だかくすぐったいですよ」

「いえ、これはけじめです。逆に先生には私に丁寧語で話すのをやめて頂きます。お父様が私にそうしていたような言葉遣いをして下さい」

 政治家は何を話すかが大切だが、誰が話すかの方がもっと重要だ。同じことを話しても、柴垣大二郎という政治家が言うと理屈を超えた説得力があった。

「つまり、それが人格の持つ力です。こういうことは形から入るのも大切ですよ。まずは言葉遣いから仕草まで、できるだけお父様のように振舞いましょう。そうすれば格段に早くお父様に近づけます」

 池上にそう言われて、貴文は折に触れて父親ならどう振舞うだろうと考えるようにしているが、二十歳も年上の池上に、さすがにぞんざいな口のきき方はできなかった。一方で、議員になって三年も経つのに、何かというと父親の名前を持ち出す池上秘書のことが鬱陶しくもあった。

「それでは池上さん、早速ジープの手配を頼みます。私はいつでも出かけられます」

 池上が山下モータースに電話をする間に、貴文は防災服に着替えてヘルメットを被った。

「ほう…なかなか板についていますよ、先生。我々には知事と違ってテレビの取材は入りません。そういう意味では気が楽です。防災服を着てジープに乗り込む姿と、現地で被災者の手を握る姿を写真に収め、議員だよりに掲載するのが目的です。この雨の中、地元選出の県会議員がジープを駆って被災地に向かう姿は、必ず有権者の心をつかみます。知事が引き返したのですから、現地にたどり着けなくても不名誉ではありません。それどころか、知事と違ってこの雨の中をジープで被災地に向かった先生の心意気を県民は評価します。あ、議員だよりの記事の方は私にお任せ下さい」

 議員だよりが目的だったのか…。

 貴文の耳に、いつだったか一緒に酒を飲みながら聞いた大二郎の声が蘇った。

「いいか、貴文、政治家は世の中をどうするかを考えるのが仕事だが、有権者の目に映る自分を常に意識しなければならん。むしろ、それが政治というものだと思った方がいい。票を失えば議員はただの人だ。ただの人には世の中を変える力はないのだからな」

 そう言いって、苦いものを飲み下すように一気にぐい呑みをあおった父親の良く通る低い声と、人を見透かすような鋭い目を貴文は妙に鮮明に覚えている。

 間もなく山下モータースが大型ジープを玄関先に運んで来た。

 柴垣貴文は袖が濡れるのも構わず運転席の窓を開けて凛々しく片手を上げて見せた。池上秘書がそれを軒下から写真に撮った。写真を撮り終わると貴文を助手席に移動させ、池上がハンドルを握った。ワイパーでは振り払えないような雨が降り続いている。池上は近くのコンビニに寄って、おにぎりとお茶を買ってから高速に乗った。目的のインターで降りて三十分ほど走り、谷に沿った山道に差し掛かると、いつもなら小川程度の水流が茶色の濁流になって道路に迫っていた。

「これは…現地にたどり着けないかも知れませんねえ」

 という池上の予想は当たっていた。

 山道の上りカーブを二つ曲がったところで横倒しになった杉の大木が道路を塞いでいた。

「ここで撮りましょう」

 山下は、倒れた杉を背景に、透明な雨合羽を着せた貴文をジープの脇に立たせ、運転席から、ずぶ濡れの姿を撮影した。

「ふもとに近くて幸いでしたね」

 現地まではさらに一時間ほどかかる。被災者の手を握る写真が撮れなかったのは残念だが、目的地を目前にして引き返すよりは無駄が少ない。

「さて、せっかく買い込んだのですから、少し早いですが、ここでお昼にしますか」

 貴文が雨合羽を脱ぐのを待って、池上はレジ袋から五つ買ったおにぎりのうち三つとペットボトルのお茶を取り出して貴文に渡した。

「え?池上さんは二つなのですか?」

「カロリー制限ですよ。人間ドックなんてものを受けるようになると、二つでも食べ過ぎと言われます」

「だって、池上さんはまだ老齢年金前の年齢でしょう?」

「先生も還暦を過ぎると分かりますよ。若い頃はカネが無くて食べられないが、年を取ると健康のために食べられない。それより今月の二十一日からは本会議が始まります。確か一般質問でしたよね?」

「一年生議員には順番で一般質問をさせて、勉強させてやろうという会派の親心だそうですよ」

「…てことは、着眼点が問われますね」

「着眼点…と言いますと?」

「これだけの災害です。ありきたりの災害復旧施策ではなくて、被災者の心のケア体制について質問するというのはどうでしょう。阪神淡路大震災以来、必要性が叫ばれている割にはまだまだ認識が乏しい。そこに目を付けるのですよ」

「なるほど…心のケア…ですか…。しかし、質問するにはそれなりの知識が必要でしょう?的外れの質問をしたら却って笑われてしまう」

「質問は県の担当課に作らせたらいいでしょう。もちろんその上で勉強するのは大切ですがねえ」

 貴文は池上の発想力に脱帽する思いで、好物のタラコのおにぎりにかぶりついた。貴文がタラコを好きなことも池上は把握している。

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