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豪雨(4)
令和05年01月25日
雨は三日後には嘘のように上がり、抜けるような秋空が広がった。一部断水した地域には給水車が手配された。知事と副知事が揃って上空から被災地を視察した。福祉事務所から五人の職員が現地の応援に派遣された。広域防災センターからは備蓄してあった防水シートが百枚、現地に発送された。被害の全容が明らかになる一方で、復旧作業が着々と進む中、被災地に対し、心のケアチームを派遣する体制を準備せよという正式な指示が、保健医療課の赤塚補佐から、精神保健福祉係長の高岡にあったのは、堤防決壊から五日後のことだった。
「実は、まだ早いかとは思いましたが、必要なとき、いつでも派遣できるように、とりあえず二週間分の予定を組んでおきました。精神保健福祉センターの精神科医と保健師の他に、現地を診療圏にする二つの精神科病院のソーシャルワーカーに依頼して、曜日ごとに勤務に支障のない医師とナース、それから管轄の保健所の保健師のローテーションと、眠剤、安定剤の種類や予算が一覧にしてあります」
「ほう…仕事が早いねえ」
「うちの課としては、心のケアですな…という課長と補佐の会話が聞こえたものですから、準備だけはしておこうと思いまして」
高岡は一覧表と共に、現地で必要となる物品のリストや、被災者の健康状態を聴き取るための簡便なチェックシートなど、先行事例を参考にして作成したものを赤塚に提出した。
「あ、補佐、それからですね…」
二十一日から始まる本会議で使いたいので、被災地への心のケアチームの派遣体制について、その必要性を訴えながら県の姿勢をただす内容の質問を作成するようにと、柴垣県議から依頼があったことを報告し、
「答弁書も一緒に作成してみましたので、ご点検下さい」
原案を差し出した。
「ほう…いよいよ柴垣県議が質問をしますか。彼は県議会最大会派の民生クラブの一期生だから、一般質問の順番が回って来たんだよ。あそこには、そうやって新人議員を育てるシステムがある。ま、心のケアに着目したのは秘書の池上さんのセンスだと思うがね」
「いえ、電話はご本人からでしたが…」
高岡の反応は老練課長補佐の解説癖を刺激した。
「間違いなく池上秘書の発想だよ。一期生の二代目議員が思いつく質問ではない。それに議員自身が電話をかけて来たのも池上さんの入れ知恵だと思う」
「そんなことまで秘書が?」
「質問の文案を作れと言う電話が秘書からかかってきたら高岡くん、君はどんな印象を受けるかね?」
「確かに余り愉快ではありませんね。秘書からの電話では議員の熱意は伝わらなかったでしょう。それに肉声だと何となく人柄が分かります。柴垣議員は謙虚でいい感じでしたよ」
「そこが狙いなんだよ。君も県民だからね。議員に抱いた好印象は、君の口から機会ある度に有権者に伝わって行く」
「なるほど、政治家の集票活動はそういうレベルでも行われるのですね」
「先代の大二郎さんは議長を二期務めた大物議員だから、血統は申し分ない。その大二郎さんに仕えていた池上秘書がついてるんだ。柴垣議員は伸びるよ。知事も含めて、先代に世話になった大勢の議員たちが彼の後ろ盾になる」
赤塚は議員に関する知識を得意そうに披露したあとで、
「ま、どちらにしても質問と答弁を同じ担当課の職員が作るんだから、議会制民主主義と言ったって学芸会みたいなもんだけどね」
と付け加えて高岡の作成した質問書の案に目を通した。
『県政民生クラブの柴垣貴文であります。まずは今回の豪雨災害で被災された皆様方に心からお見舞いを申し上げます。会派を代表致しまして、今後の災害対策について質問致したいと存じます。今回の豪雨では、流出した家屋が十一戸、半壊や一部破損家屋が十六戸、床上まで水に浸かった家屋は百戸を超え、床下浸水に至っては四百戸に上っていて、今後の調査ではさらに増加することが予想されます。県当局としましては、寸断された道路、橋、堤防、ライフラインを初め、被災された皆様の生活基盤の一日も早い復旧に、たくさんのボランティアのご協力も得ながら、最大限のご努力を始められたところと存じますが、実は阪神淡路大震災以来、災害が発生する度に問題になるのが、被災者の皆様の心のケアの重要性であります。若者が都会に出てしまい、高齢の夫婦や単身者ばかりが残された山間部が今回被害に遭いました。被災した自宅の片づけで日中は気持ちが張りつめていたお年寄りが、心配する家族の問い合わせに、大丈夫だから心配するなと答えて電話を切ってから、話し相手もいない長い夜を過ごす心情を想像すると、こうして質問に立っていても胸が締め付けられる思いです。考えてみれば、時代の趨勢とはいえ、このような山間部の状況は、故郷を捨てて都市部に出なければ若者の働く職場がないという現状を招いた国を含めた行政に責任の一旦…いや、大きな責任があると言わざるを得ません。俗にトラウマと言いますが、生死にかかわるような大きな出来事が心に与えたダメージは、平穏な日常が戻って来てからも、たとえば降り始めた雨の音が引き金になってパックリと傷口を開け、言いようのない不安に駆られたりすることが分かっています。それどころか、コントロールできない不安に駆られて、自ら命を絶つといった事例も報告されているところです。そこで、物理的な災害復旧と併行して、被災者の心のケアに対して人も予算もかけて頂きたいと切望するものでありますが、県当局のお考えをお伺いしたいと存じます』
「ほう…きみはなかなか文才があるじゃないか。これなら聴く者の胸を打つし、池上秘書も満足されるに違いない。だが、筆が走り過ぎるのは感心しないね。特にこの辺りのことは議員自身が自分の言葉で書くべきだと思うよ。ここまで書かれてしまうと、柴垣議員はきみの原稿を単に読み上げるだけの役割になってしまって、プライドが傷つかないとも限らない」
赤塚はそう言って高岡の文案の、『若者が都会に出てしまい』から『俗にトラウマと言いますが』の前までを赤いボールペンで容赦なく消した。高岡が最も力を入れて書いた部分だったし、そこを削ると、ひどくつまらない文面になる。しかし、赤塚から指摘されてみると、何度か同居を提案しても頑として田舎から動こうとしない自分の両親を重ねて書いていることに気が付いて反論ができなかった。
「…で答弁書は?」
「こちらです」
赤塚は、高岡が差し出すもう一枚の用紙に目を通した。こちらは質問案に比べると格段に短い。
『議員ご指摘の通り、心のケアの重要性につきましては、私どもも十分に認識をしてございまして、実は災害が発生した時点で既に担当課には現地にケアチームを差し向ける体制だけは作っておくようにと指示がしてございます。精神科医と保健師、精神保健福祉士によるチームを編成し、現地で必要になる薬剤や物品に至るまで準備して、向こう二週間をカバーできるだけの体制が整えてございます。チームを派遣する時期につきましては、早すぎてはだめ、遅きに失してもだめ…と、タイミングが非常に難しいということが先行事例から明確になってございますので、現地の役場と連携を密にして、時期だけではなく、実施の方法についても待機型がいいのか、訪問型にすべきなのか、場合によっては両者を併用するのか、十分に協議をし、適切に実施して参る所存でございます』
「ふむ。これなら簡潔で申し分ない。どうですか?課長」
赤塚は二つの文案を長澤課長に手渡して、課長が目を通しているうちに、窓一面に広がる青空に目を向けて、
「ひとつ先手を打ちますか…」
と言った。