豪雨(5)

令和05年01月28日

 赤塚の言う先手とは、二十一日の議会開催日には心のケアチームの第一陣の派遣を実施できるよう日程を決めて、その予定を記者発表してしまおうというものだった。

「なるほど、確かにそれができれば最高ですね」

 長澤課長は読んでいた文案を机に置いて身を乗り出した。

 赤塚補佐が既にチェックを済ませた文章に自分まで目を通す意味はない。たとえ過不足や修正箇所があったとしても、親ほどの年齢の課長補佐が若い課長の指摘を歓迎するとは思えない。

 それより今は、赤塚の提案を実行することの方が重要である。柴垣議員の議会質問に対して、実は本日、第一陣のチームが現地に向かったところですと答弁できれば、知事も衛生部長も保健医療課長としての長澤の手腕を高く評価するに違いない。

「高岡くん、文案はこれでいいから、二、三日経ったところで、柴垣議員に質問書の案をメールかファックスで送信してくれたまえ。答弁書の方は私が預かった」

「質問案なら、すぐに送信できますが…」

 高岡には返信を二、三日待てという意味が分からない。すると赤塚は口元にかすかな笑みを浮かべ、

「こういうことはね、あまり早く返事をしたのではありがたみがないからね。少し日にちを置いた方が値打ちが出るんだよ」

 部下の教育のつもりなのだろう。公務員としての処世術を得意げに披露したあとで、

「そんなことより急ぐべきは心のケアチームの派遣だよ。本会議まであと五日しかないからね。すぐに被災地の役場に電話して、本会議開催日には派遣の方向で日程と方法を話し合ってくれたまえ」

 畳み込むように命令した。

「お言葉ですが…」

 高岡は思いがけない進展に戸惑って、

「答弁書にも書いた通り、被災地への心のケアは、早すぎてはだめ、遅すぎてもだめなことはたくさんの先行事例で明らかになっています。まだ被災からわずか五日目です。恐らく現地では倒壊した家屋や泥を被った家財の片づけで不眠不休が続いています。一人でも多くの人手が欲しいところへ、心のケアを申し出たりすれば、常識を疑われる以上に反感を買い兼ねないと思いますが…」

「何も今すぐ派遣しろとは言っていないよ。議会初日までには、さらに五日ある。被災から十日経つんだからね。まずは現地と相談して少なくとも議会当日には第一陣を派遣できるように日程を決めろと言っている。それに、時期尚早と言ってもだね…」

 と赤塚は机から『災害時こころのケア・ガイドライン』という冊子を取り出して、

「急性ストレス反応への対応を目的とした派遣についてはだね、被災直後から一週間以内を想定しているんだよ」

 と、該当ページを開いて見せた。

 赤塚補佐はいつだって周到である。根拠のないことは言わないことで定評がある。

 高岡は被災からわずか五日目に心のケアチームの派遣を打診することに一抹の不安を感じていたが、ガイドラインまで持ち出して、現地と日程を相談しろと上司から命じられれば反論の余地はない。派遣は無理強いするのではなく、あくまでも現地の要請に基づいて実施するのだ。

 高岡は自分の机に戻ってK町の代表番号に電話した。

「はい。福祉課長ですね?しばらくお待ちください」

 代表案内の女性の声のあと、しばらく電子音のメロディーが繰り返し流れていたが、

「はい、もしもし、福祉課長の塩崎ですが…」

 聞こえて来た男性の息は心なしか乱れ、背後には複数の職員の大声が飛び交って、被災地の役場の喧騒を伝えていた。

「私、県の保健医療課の精神保健福祉係長の高岡と申します。この度の災害につきましては、心からお見舞い申し上げます。お忙しいことは承知の上で、実はご相談があってお電話致しました」

「あの…こちら福祉課ですよ。保健センターにご用なのではありませんか?」

「いえ、私ども、実は被災地に心のケアチームを派遣する用意がございまして、五日後ぐらいには第一陣を派遣できたらと思っておりますが、被災地の要請がなくては動けませんので、ひとつ福祉課長さんにご相談をと思いまして…」

「はあ?」

 塩崎福祉課長の反応は明らかに反感を帯びていた。

「あのですね、被災してまだ五日目ですよ!自分の家、親せきの家、近隣、勤め先…住民はみんな昼間は片付けに追われ、夜は疲れ切って眠っています。それは私ども役場の職員も同様です。そんなときに心のケアって、あなた、何考えているんですか!支援のチームがあるのなら、いますぐ派遣して、畳を上げたり家財道具を処分する手伝いをして頂きたいものですよ」

「いえ、分かります。おっしゃる通りだと思います。もちろん今すぐではありません。今すぐではなくて、例えばさらに五日後…つまり、被災して十日目ぐらいには第一陣の派遣を実施できないものかと思いまして…その日程と方法のご相談のつもりです」

 高岡の懇願に、

「分かりました。よく分かりました。それでは、必要を感じたら早速要請申し上げます。ええっと…精神保健福祉係長の…」

「高岡です」

 再度名前を名乗った高岡が、なにぶんよろしくと言わないうちに電話は切れた。その乱暴な切り方に被災地のいら立ちが表れていた。恐らく塩崎福祉課長は高岡の名前を記憶していない。必要を感じたら…という言い方に、心のケアチームの派遣など要請されない予感があった。しかし、それならそれで止むを得ないではないか。主体はあくまでも被災地の役場である。

「補佐…」

 高岡は被災地はまだ心のケアを必要とする段階にない状況であることを赤塚に報告した。デスクで決済書類に目を通していた赤塚は、掛けていた老眼鏡を机の上に置くと、片方の眉をピクリと動かして高岡を見上げ、

「君は役場の誰に電話したのかね?」

 と聞いた。長澤課長は新聞に目を落としたままで二人のやり取りに耳をそばだてている。

「福祉課長ですが…」

「それじゃダメだよ。たいていの役人は自分でものが決められない。現に君だって私に言われて心のケアチームの派遣を計画し、私に言われて現地に電話をかけている。そうだろう?自分で決定するためには適切な判断能力と、責任を取る覚悟が必要だからね」

 自分には責任を持って判断する能力があると言わんばかりの赤塚の物言いに反感を持ったのは高岡ばかりではない。新聞に向けた顔の角度を変えないまま、ほんの一瞬だけ赤塚に視線を送った長澤課長の目にも、明らかに怒りの色が宿っていた。

 そんなことは意に介さず、赤塚は思いがけないことを言った。

「町長に電話してみたまえ」

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