お仕置き(37)(最終回)

令和06年02月12日

 その日、一度に四人の、それもベテラン職員たちから揃って辞表を提出された市川所長は、事の重大さの割には悪びれない様子の四人を前に、思わず立ち上がって目を見開いた。何か言わなければと思うのだが言葉にならない。慰留すべきなのか、受理すべきなのかも判断がつかなかった。しかし、受理しようがしまいが、辞めるのは労働者の権利である。それより、鈴村郁代が長期の病気休暇中にもかかわらず、さらに四人の常勤職員に辞められたら作業所の運営は可能なのだろうか…。

「事情はお分かりだと思います」

 と寺脇のもの言いはこんなときも昂然としている。

「ご迷惑をおかけしました」

 岸谷が謝罪して、三人が一斉に頭を下げたが、寺脇だけは市川を不敵に見下ろしている。

「ち、ちょっと待ってください。いや、実は写真の提供があって、事実は知っています。しかし、これは刑事事件ではありません。鈴村さんのうつ病が業務上かどうかを認定するための調査に過ぎません。労災と認定され、その原因に皆さんが関与しているという結論になっても、認定されたという結果は請求者である鈴村さんに知らされるだけで、皆さんには特に影響はありません。この件に関する皆さんの責任の取り方については、監督署ではなく改めて職場として検討することになるでしょう。それより、突然、四人一度に辞められたら作業所の運営ができません。何とか思い止どまっては頂けませんか」

 今度は所長が頭を下げた。

「監督署の調査に自分のプライドが耐えられそうにありません。やはり辞めさせて頂きます」

 寺脇には一旦決めると、周囲への配慮をしたり、その後のことを考えるということがないらしい。

「いや、皆さんの気持ちはよく分かりました。それでは私が監督署の職員にそう言って、皆さんへの調査はとりあえずストップするというのはどうでしょう。その上で、皆さんが辞めても施設運営に支障がないように職員体制について本部と相談します。その間はこれまで通り仕事を続けてください。いえ、長い時間はかかりません。一週間、いや五日、いや三日で構いません。どうかお願いします。この通りです」

 市川は立ったまま所長机に両手を付いて深々と頭を下げた。

 下げた頭の片隅で、こんな卑劣な連中になぜ頭を下げなきゃならんのだという怒りの感情がマグマのように熱を発していた。

「君たちは何ということをしてくれたんですか!恥を知りなさい!これだけ卑劣なことをしでかしておいて、依願退職ができるはずがありません。解雇ですよ、解雇!」

 と叱りつけるべき事態にもかかわらず、職員体制が整うまでは職場に残って欲しいと懇願している。考えてみれば、どんなに理不尽なことに遭っても市川は穏便に波風を立てないで生きてしまった。それで局長にまで上り詰め、大過なく定年を迎えた。二度目の職場でも同じことを繰り返している。生き方は容易には変えられないのだ。

 一方、所長にこんなふうに頭を下げられては、さすがに四人とも従わざるを得なかった。労働者としては明日から出勤しないという実力行使もできないことはないのだろうが、それでは社会人ですらなくなってしまう。

「では、できるだけ早くお願いしますよ」

 寺脇はこの期に及んでも態度が不遜である。

 そのとき、岸谷も、江口も、神田も、初めて寺脇の異常さを実感として認識していた。


 市川所長の持ち込んだ難題で、急遽、法人本部の会議室に、理事と、法人の事務長と、四つの施設の施設長及び事務長が集められた。

 市川所長による経過報告に続いて、当面の対策が話し合われた。四人の職員が辞めたあとの人員の補充については、あすなろ作業所以外の三つの施設から、知的障害者のケアの経験のある者を四人、新年から派遣することでまとまった。障害者虐待の通報については、当事者の四人が辞めて、労災の結果も出てから、監督署の調査と祖語のないように事実を整理した上で、該当職員をすみやかに処分して、この件は改善済みという体で報告の形を取ることになった。そして、くれぐれも保護者には虐待の事実は知られないようにという注意事項がついた。特にこの件がマスコミへ漏洩しないよう、会議の出席者には緘口令が敷かれた上で、

「調査が行われた以上、あすなろの職員たちは全員、パートの職員に至るまで、事件の概要を知っていると思わなくてはなりません。監督署長と懇意にしている国家公務員を知っています。その人を通じてこの件が外に出ないように申し入れておきますので、市川所長と藤原事務長はご自分の施設の職員に釘を刺して頂きたい」

 家族にも話すことのないようにくれぐれもお願いしますよと、理事長が言い渡して緊急会議は終わった。

「市川さん、大変でしたなあ…」

 職員を二人融通してくれることになった入所施設の施設長が声をかけた。

「ご迷惑をおかけします。前の所長から、寺脇くんは知的障害者の指導にかけては実力者と聞いていたのですが、とんでもない実力でした」

 市川が肩を落としてそう言うと、

「やはり、あのとき、きちんと処分しておくべきでしたねえ…」

 本部の事務長がつぶやいた。

「え?何のことですか?」

 市川には意味が分からない。

「いえ、寺脇くんも岸谷くんも入所施設の職員だったことはご存じでしょう?八年前、事務長になったばかりの仕事でしたから、よく覚えています。実は作業所が市から移管される直前に、不穏な様子を見せた岸谷くんのフロアの利用者を寺脇くんが殴り倒して、虐待ではないかと職員の間でちょっとした騒ぎになったのですよ。虐待となれば通報義務がありますが、法人としては穏やかに済ませたいために、二人を隠すように作業所へ異動させたのです」

 あのとき、きちんと処分しておけば、今回のようなことはあるいは起きなかったかもしれませんね、と事務長は言った。

 知らなかった。二人が指導の中心者として作業所に来たのには、そんな裏話があったのだ。

 しかし市川は事務長の見解には賛同ができなかった。寺脇には人格的に何か逸脱したものを感じる。こんな事態になっても寺脇からは謝罪の言葉が聞かれない。それどころか、辞表を提出に来たときの第一声は、「事情はお分かりだと思います」だった。職員体制を整えるまでは勤務して欲しいと市川が頭を下げて懇願したときの返事も、「では、できるだけ早くお願いしますよ」だった。しかも、責任を感じて辞めるのならまだしも、監督署の調査にプライドが耐えられないからという理由で辞表を提出し、その勢いは他の三人を完全に巻き込んでしまっている。寺脇の人格には、関わった者が従わざるを得ない迫力がある。それは八年前にどんな処分をしようと変わらない。恐らくこれからも変わらない。市川はそんな人格レベルの不気味さをあの見上げるような巨体から感じていた。

「あ、それから市川所長…」

 本部の事務長が体を寄せて、市川だけに聞こえる声でこう言った。

「残念ですが、今年度一杯で辞表をお出しください。一身上の都合ということで結構です。ご自分からという方がいいだろうという理事長のご判断です」

 今度ばかりは市川の穏便主義を以てしても、大過なくという訳にはいかなかった…。

 市川は県を辞めたときの退職金で買った自慢の高級車に乗り込んでエンジンをかけた。

 ヘッドライトが明々と前方を照らした。

 施設の前の道路脇に立つ進入禁止の標識がくっきりと浮かび上がった。

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