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お仕置き(36)
令和06年02月10日
個別の調査はパート職員から始まった。話した内容は他の職員には絶対に漏らさないことを約束して鈴村郁代の長期欠勤の理由について心当たりの有無を質問すると、魚住美沙支援員は、寺脇の声を録音したことをむしろ誇らしげに認めた。
「会議で対立があったということや、それが理由で鈴村さんがいじめの標的になってるんじゃないかという噂は、パート職員の間で囁かれていました。しかしそんな理由でこともあろうに利用者をけしかけて嫌がらせをするなんて、私、絶対に許せません。鈴村さんから頼まれた訳ではないんですよ。自分の考えで菅原真由美さんのポケットに毎日録音機を忍ばせては回収したのです」
また遠山支援員は、鈴村が前田道彦という利用者から度々胸を触られていた事実を打ち明けて、
「あれも絶対に特定の職員に命令されていたのだと思います」
寺脇大輔という固有名詞は使わないまでも、あれも…という表現に精いっぱいの批難をこめていた。
正規の職員たちの調査では前沢幹夫と小島直樹から詳細な事実経緯を聞くことができた。証拠の写真を入手したり、所長との会話や職員会議の様子の録音を鈴村郁代に聞かせて、不誠実な職場の実態を理解させたのが二人であったことも明らかになった。
「提供された録音のお陰で、鈴村さんの職場復帰に対する所長や職場の態度がよく分かり大変参考になりましたが、音源は私の手元に留めておきますのでご安心ください」
目的はともあれ、盗み録りとなれば、職場内でのお二人の今後の立場にも影響する可能性がありますからね、とさすがに柿沼は思慮深い。ところが、柿沼がどんなに質問しても、嫌がらせの決定的証拠となった写真の入手経路についてだけは、
「ちょっとそれは…」
と言うだけで、二人は決して答えようとしなかった。
駐輪場での防犯カメラの映像は不問に付すと約束して写真と引き換えた以上、写真の提供者が岸谷であることは話す訳には行かなかった。
しかし調査を前にして岸谷の方は混乱を極めていた。
前沢に送った写真が鈴村経由で監督署に渡っていないはずがない。にもかかわらず写真の存在には一切触れずに調査が始まっている。考えられる理由はただ一つだった。証拠がないのをいいことに虚偽の答えをする職員のチェックが行われているのだ。現に証拠の漏洩を恐れて寺脇は、岸谷、江口、神田の三人に写真消去の指示を出した。これで証拠は消えたと高をくくり、嫌がらせについて関与を否定した職員は、後から写真を突き付けられて不誠実の烙印を押されることになる。どうしたらいい…。写真を提供する時点では労災の話は出ていなかった。前沢から証拠写真を見せられた所長は、寺脇一人を別の施設に異動させるだけで穏便に済ませる予測だった。それが監督署案件になってこうして調査が始まっている。最終的に写真は明るみに出るだろう。そうなれば写真を提供したのが自分であることを隠し通すことができるだろうか…。
「なんで調査の前に教えてくれなかったんだ。知っていれば潔く謝罪できたのに、嘘を重ねてこれじゃ恥の上塗りじゃないか」
最低だな、お前…と睨みつける寺脇の憎悪の目が浮かぶ。
こんなことならパンク事件で警察沙汰になった方がよかったとさえ思えて来る。修理代金に慰謝料を上乗せして示談すれば、軽微な犯罪であり、初犯でもあり、反省もしているという理由で不起訴になって、職場には知られずに済んだのかも知れない。
後悔しても始まらなかった。
監督署に知られてしまっている以上、調査が及ぶ前に写真の件は仲間に打ち明けた方がいい。岸谷は防犯映像と写真の引き換えを迫られたときと同じように、限られた時間の中で、既に答えの出ている問題で迷い、迷った末に初めから分かっていた答えにたどりついた。
『監督署の調査の前に話がある。本日、帰りに喫茶ボンに集まってほしい』
岸谷はグループにLINEを入れた。
仕事帰りの時間帯の喫茶『ボン』は、相変わらず客の姿はほとんどなかった。
四人掛けのボックス席に腰を下ろした岸谷洋一、寺脇大輔、江口俊之、神田由紀は、出されたコーヒーに手も付けず、重大すぎる事実を告白した岸谷に険しい視線を送ったまま沈黙している。岸谷は三人と目を合わせることができないで、罪人の様にうなだれていた。
「おれ…仕事、辞めるわ」
寺脇の思いがけない言葉が長い沈黙を破った。
「!」
三人が寺脇を見た。
寺脇は舟の行方を見定めている船頭のような目をしている。
「それしかないだろう」
寺脇は短く言い放った。監督署に写真が渡っていては嘘はつけない。ましてや、自分で手を下せば問題になるから、利用者を脅してやらせたのだなどとは言えるものではない。こうして調査官への返答を具体的に想定してみると、自分のやったことは最低だった。調査を避けようとすれば辞めるしかない。辞めて職員でなくなれば調査は及ばない。
「しかし、寺脇さん、写真だけで私たちか関与していることまで分かるでしょうか?」
「そりゃあ分かるだろうよ」
寺脇は自分のスマホを操作してLINEの写真を出して見せた。
「え?消去してなかったのですか?」
「当たり前だ、苦労して撮った写真だからな。おれは鈴村が辞めたら思い出のアルバムを作るつもりだったんだ」
そこには江口の名前こそなかったが、『神田の自然な演技は主演女優賞だ』とか『ビール瓶を蹴る岸谷のタイミングは絶妙だったな』というコメントが写真に添えられている。
「ホント、悪かったな…」
岸谷が改めて謝った。
それで覚悟が決まったのだろう。
「私も辞めます!」
と神田が言い、
「ぼくだって、こんなことが明らかになったら勤めてはいられません」
江口が続いた。
「お前は?」
と聞かれて、
「辞表を書くよ」
岸谷もそれ以外に選択肢がない。