お仕置き(35)

令和06年02月08日

「福祉施設は、物を作るのでも制度を適用するのでもなく、人間を世話するところです。それも一般社会では適応の困難な障害者が対象です。施設は集団生活ですから、当然、秩序が必要ですが、秩序はルールを設けるだけでは保てません。障害者を直接支援する職員には指導に従わせる技術がどうしても必要です。まあ、技術というよりは力ですけどね」

「その点は市川さん、この『あすなろ作業所』は恵まれていますよ。入所施設から来た寺脇という力のあるベテラン支援員がいますからねえ」

 あのときは心強く思った寺脇の指導力が、こんな形で利用者はおろか職員まで支配していることに市川は全く気が付かなかった。

「鈴村さんは、これだけの事実を知っても内部告発のようなことをせず、労災認定という形で職場改善を望んでいらっしゃいます。所長に改善の意志が感じられない以上、他に方法がなかったのでしょう」

 確かに柿沼の言う通り自分は不誠実だった。

 そういえば二通目の手紙には、

『法人本部に苦情処理の窓口があることは承知していますが、問題が職場を超えて広がるのは好ましくはありません。所長さんの英断で、是非私の希望を叶えて頂きたく再度お願いする次第です』

 と書いてあった。それに対しても自分は、本部の苦情処理の窓口なんかに相談されたら面倒なことになると考えて、犯人捜しはしないよう前沢サビ管にくぎを刺した上で適当な落としどころを指示してしまった。鈴村郁代は内部告発どころか、本部の苦情窓口に訴えることさえしなかった。市川所長は鈴村郁代に救われていたことにようやく気が付いた。

 恥ずかしかった。

「あの…これからの調査の予定はどのように?」

「この種のことは、寺脇という職員が単独で行えるものではありません。俗に傍観者も加害者であるという言葉がありますが、今回の事件に加わらなかった職員も、もちろん所長さんや事務長さんも含めて、このようなことが起きる一つの構造を形成しているものと考えます。職員一人一人と面接してそれを調査することになりますが、調査とは言っても、いわゆるアンケートに答えたり、取調べを受けたりするのとは違います。職員は私どもから質問を受けることによって、それぞれが個人としてこの問題と向き合い、個人として考えることになります。複数の職員が、互いの関係性を考慮して、自分にとって不利益にならないような発言だけをする職員会議とは決定的に違います。結果が出るまで月単位の作業になるとお考えください」

 市川所長も藤原事務長も冬山に挑む登山家のような表情で襟を正した。自分たちはこれまで管理者として職場の何を見ていたのだろう。どうせ管理者は何も見ていないと思うから、平和な日常の裏でこれだけ悪質なことが繰り広げられていたのだ。それを柿沼は「構造」と表現した。悪は、それを許す風土があってはびこるものなのだ。今日からは検食は事務長に任せ、食堂で利用者や職員と一緒に給食を食べようと市川は思った。そして、柿沼の調査には誠実に協力して、どんな処分でも受けようと思った。

「写真や録音のことは職員には伏せておいた方がよろしいでしょうか?」

 柿沼に聞いたつもりの事務長の質問に、

「その方がいいでしょう。自分たちの行為が監督署に知られていると思うのと思わないのとでは調査に対する構えが違います。黙っていましょう」

 答えたのは所長だった。

「くれぐれも頼みますよ」

 市川所長に強くそう言われた事務長は、はいと返事をして唇を真一文字に結んだ。

 その様子を柿沼が満足そうに見ている。

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