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お仕置き(34)
令和06年02月06日
監督署の調査官として若い職員を一人伴ってあすなろ作業所へやって来た柿沼信彦は、所長室へ通されて応接のソファーに座り、市川所長と藤村事務長の二人と机を挟んで向き合う形になった。
中堅本部職員が二人、少し離れた位置に置かれたパイプ椅子で控えている。
鈴村郁代さんから療養給付の請求があって、ご提出いただいた関係書類の精査が済みましたので…と、調査理由を述べて、
「職場としては業務上の疾病とはお認めにならないという立場でよろしかったでしょうか?」
柿沼は単刀直入に所長に尋ねた。
本部職員が膝の上でメモ帳を広げてボールペンを持った。
「ご本人は、利用者の行為が特定の職員の悪意ある命令に基づく嫌がらせだと手紙で訴えているようですが、その辺りの事情については職場としてお調べになりましたか?」
「もちろん、手紙は会議を開いて職員全員にコピーを渡し、心当たりがあれば申出るように言いましたが、残念と言うか、幸いと言うか、誰も心当たりはございませんでした」
「え?ここに手紙のコピーがありますが、所長は鈴村さんの最初の手紙は職員には見せず、所長が代表して謝罪するという形で職場復帰を促されているようですが?」
「ん?ああ、そうかも知れません。そうです。思い出しました。確かにそうでした。何しろ結構な日数が経っていますので…。犯人捜しをするのはいかがなものかという判断でした」
「それを鈴村さんが拒否されて、謝罪は不要だから文面を公開の上、職員全体で受け入れ体制について検討をして欲しいと要求された。この要求を受け入れた時点で悪意ある命令者という看過すべきでない存在を不問に付されたことになりますね」
「ちょっと待ってください。看過すべきでない存在とおっしゃいますが、そんな事実はないのですから、不問に付した訳ではありませんよ。ま、細かい経緯はともかくとして、最終的には鈴村さんの手紙は二通とも職員全員に公開して心当たりを聞きました。懸念していた通り、精神を病んだ患者の妄想を信用して我々を疑うのかとか、鈴村さんこそ我々を疑うという形で嫌がらせをしているのだとか、中には彼女の辞職を要求する声まで上がって、それはもう大変なことになりました。つまり後ろで糸を引いた職員などいなかったということです」
所長の声が大きくなった。柿沼は一呼吸置いて、
「所長さん、鈴村さんが妄想で特定の職員の悪意を申し立てるような人に見えますか?そもそも、うつ病は妄想を伴う病気ではありません。あれは鈴村さんの推理であり実感だと思います。私には誠実な人に見えました。労務管理は最終的には、上に立つ者の人間を見る目にかかっているのですよ。私どもはこれから一人一人の職員と面接して事情をお尋ねすることになりますが、こうなる前に、所長は全体の管理者として、個々の職員と面談をなさらなかったのですか?」
「あの…福祉現場のことをご存じないので無理もないとは思いますが、施設には利用者がいますし、大きな行事も控えていて、とてもそんな時間的余裕はないというのが実情なのですよ」
藤村事務長が助け舟を出すと、
「福祉現場には腰痛の労災事案で何度も調査に出かけていますから、私なりに知っているつもりです。面談は一人三十分程度でもいいではありませんか。ここは正規職員が七人、パートの職員さんを加えてもわずか十人の職場です。昼休みでも利用者の帰宅後でも、一日一人と面談すれば十日で済むことですよ。二人と面談すればわずか五日です。職員会議では絶対に本音は聞けません」
柿沼は、ここが潮時と判断して、これを見てください…とバッグから一冊のファイルを取り出して広げて見せた。寺脇がタイトルやコメントを付けて仲間のLINEに送った一連の写真がプリントして時系列に整理してあった。
「ご存じなかったでしょう?そして、この録音が嫌がらせを利用者に命じた職員の声です。鈴村さんは根拠があって悪意ある命令者とおっしゃっていたのですよ」
と言って、菅原真由美に命令する寺脇の音声を再生した。
「真由美、カレーはうまくやったなあ!次は鈴村先生の靴を男のトイレに隠せ。いいか、男のトイレだぞ。分かるだろ?」
「真由美、今度は水筒だ、鈴村先生の水筒にこっそり醤油を入れろ、醤油は、ほら、ここにある。誰にも見つかるなよ、入れたら醤油の容器は分からないようにごみ箱に捨てろ」
「万一見つかっても、絶対何も言うなよ!黙ってるんだ。しゃべったら、ひどいからな」
寺脇の声が聞こえる中、所長と事務長は前のめりになって写真を見つめたまま沈黙した。その後ろに立って本部職員はメモを走らせている。
まさに動かぬ証拠だった。しかし、こんなタイムリーな写真は嫌がらせを行うことを前もって知っていなければ撮れるものではない。しかも写真には神田や岸谷が関わっているコメントが添えられている。さらに鈴村郁代の身に起きた一連の出来事は、寺脇の生々しい命令の声と対応している。
「こんなものをどこで…それに、どうして今頃…」
「それはいいでしょう。それよりも…」
これは私どもの職責外のことになりますが…と前置きをして、
「利用者に命じてこんな悪質なことをさせるのは、障害者虐待には当たりませんか?」
柿沼は市川所長と藤村事務長を交互に見た。
「…」
二人とも即答ができなかった。
本部の二人も当惑して固まっている。
もちろん、これは悪質な虐待と言わざるを得ない。こんな事実が保護者に知られたらとんでもないことになる。それどころか、マスコミにでも取り上げられたら、法人としてどこまで責任が及ぶか計り知れない。そもそも市から法人に移管したことの是非についてまで問われかねない問題である。そして困ったことに、同僚による虐待の事実を知った職員には、それを市に通報する義務がある。つまりこの時点で所長にも事務長にも通報義務が生じたことになるのだ。
「柿沼さん…」
市川所長は座り直して背を伸ばし、
「私は…間違っていたようです」
真剣な表情でそう言った。
市役所を定年退職して、あすなろ作業所に再就職が決まったとき、何とか五年間を大過なく過ごしたいと思った。大過なくというのは公務員時代の価値観だった。余計なことをすると仕事が増える。責任が増える。摩擦が増える。失敗の可能性が増える。それは大過の発生につながっていた。現状を変えないことが最良の生き方だった。しかし、大過のない現状を、何事かを成し遂げているかのように雄弁に周囲に語って見せる能力は人一倍磨いた。それで環境局長にまで上り詰めた。同期の中では早い出世だった。作業所に再就職しても市川の姿勢は変わらなかった。柿沼の言う通り、職員一人一人どころか、精神を病むほどの苦痛に苦しんでいた鈴村郁代とさえ、真剣に向き合ったことがなかった。
「ま、何も期待されていないということでしょうな」
ここに赴任したばかりの所長会議で聞いた言葉通りの生き方をしていたことになる。
市川は前任の所長の引継ぎの言葉を覚えていた。