お仕置き(33)

令和06年02月04日

 あすなろフェスティバルが無事終わったと小島から電話があった。昨年と同じ内容だったが、利用者は喜んでいたという。マンネリを嫌って会議の席で新しい企画を郁代に命じたのは何だったのだろうと小島は憤っていた。新しい企画が本当に必要なら、副委員長の郁代が職責を果たせなくなったとしても、岸谷自身が考えるとか、職員からアイデアを募るとか、方法はいくらでもあったはずだが、そんな気配は全くなくて、結局、職員の出し物まで昨年と同じだった。ということは、新規企画の件も郁代に対する手の込んだ嫌がらせだったのではないかと小島は推理していた。どんな企画を提案しようと、寺脇、江口、神田が徹底的に否定する計画だったのだ。

「社会福祉士が提案するのだから、専門的見地に基づいたものだろうと迂闊にも信頼してしまいました。十分吟味する時間もなく仕事が始まりましたので、大変至らない案を検討して頂く結果となりましたことを委員長として恥ずかしく思っています。本人も十分反省していることと存じます」

 そうだな、と岸谷に念を押され、

「申し訳ありません」

 頭を下げた郁代が蒼白な顔で立ち尽くしたときの様子が小島の脳裏に焼き付いている。

 しかもあれは自転車をパンクさせられた翌日の出来事だった。

そのときの郁代の悔しさを思うと、

「おれは、あいつらが絶対に許せない」

 小島は電話で自分の事のように腹を立ててくれた。

 小島が腹を立ててくれる分、郁代の気持ちは不思議と楽になった。心の通う者と気持ちを分かち合うと、喜びは倍になり、悲しみは半分になるという意味が分かるような気がする…ということは、郁代と小島は心が通っているということなのだろうか…。

 寺脇を裏切ったはずの岸谷は、まるで安心したカタツムリのように、平然と寺脇の腰巾着として振舞い始めていた。いつの間にかストッキングのお仕置きも再開していた。そこに居合わせれば、小島も前沢もやめた方がいいんじゃないかとは言うものの、それ以上の抗議はしなかった。郁代の排除に成功した今、抗議したからといって聞くような相手ではなかったし、すれば利用者に命じてどんな手を使って来るか分からなかった。もう手口は分かっていた。

 確か郁代は通常より早く監督署が調査に入ると言っていた。一週間が経った。二週間が経った。指折り数えて待った調査の火ぶたは、十月の二十五日に、事務長の藤村真司の慌てふためいた報告で切って落とされた。

「所長!法人本部から電話で、労働基準監督署から十月の二十六日に調査が入ると連絡があったそうです。鈴村郁代さんの労災認定の件です。午前中だそうです」

「事務長、落ち着いてください。まずはドアをきちんと閉めましょう」

 市川所長は長年県庁で管理職を務めた時代の癖なのか、会話が外へ漏れることには人一倍神経質だった。

「監督署から要請があって報告書や資料を提出したのですから、調査が入ることは分かっています。それにしても想像していたより早いですね。ええっと…二十六日というと…事務長、え?明日ではないですか」

 目がうろたえている。

「はい、職員が二人来るそうです。それから本部からも二人」

「調査。結構じゃないですか。しかし本人がいくら労災だと主張しても、うつ病が簡単に業務上によるものなどと認定されるはずがないではありませんか。そうでしょ?そうですよ、業務上だという証拠がないことを調査で確認するんです。そのために来るのです。心配ありません」

 心配ないと言いながら、所長は盛んに貧乏揺すりを始めていた。

「それでは、明日は私と所長で対応するということでよろしいでしょうか?何しろみんな現場がありますから…」

「それでいいでしょう、二人で対応できると思いますよ。そもそも鈴村さんを苦しめたのは、全て利用者のいたずらでしょう?いや、そう言い張ればいいのですからね。証拠はありません。事務長も誰かが利用者に命じて鈴村さんに嫌がらせをしたなんて聞いていないでしょう?」

「私には現場のことは…」

「そうでしょう。そうですよね。事務長が知っているはずがありません。だってそんな事実はないのですからね。本部から二人来ると言いましたが、わざわざ来る必要があるのですか?そうか、それは本部が決めることですね。今日は二十五日でしょう?二十六日と言いましたね?それって明日じゃないですか」

 所長はだんだん支離滅裂になって来た。そして、にわかに心配になったように立ち上がり、

「一応念のためです、帰りに職員を集めてください!すぐに、すぐに集めてください」

「すぐにって、帰りでよろしいんでしょう?まだ利用者がいますから」

「すぐというのは、帰りにすぐという意味ですよ」

 怒ったように大声を出した。

 藤村事務長は、こんなふうに取り乱した市川所長を見るのは初めてだった。

 事務室で所長の話を聞く大半の職員たちは、何を今さらという顔をしていたが、前沢と小島は、かねて承知のことと落ち着いていて、岸谷だけが驚愕の表情を隠せなかった。

「鈴村さんが、自分のうつ病は業務災害だと主張して労災認定を求めました。それで明日午前中に監督署の職員が二人来て調査をすることになりました。もちろん、職場としては業務が原因だとは認めていません。つまり調査が入るということは、業務災害かどうかを判断するためということになりますが、利用者から嫌がらせをされたから心を病んだという理屈は成り立ちません。知的障害者の問題行動に対処するのは支援員の職務ですからね。それで心を病んだと主張するのなら、支援員として適性に欠けるというだけのことです。辞めてもらうしかありません。本人は、誰かが利用者に命じて嫌がらせをさせたのだと信じているようですが、そんな証拠はありません。皆さんにも監督署の職員が色々質問することになると思いますが、冷静に、いいですか、冷静に否定してください。そして…」

 もしも職員が利用者に命じて鈴村さんに執拗な嫌がらせをしたことを証明するような証拠があれば、直ちに処分してくださいと締めくくった。証拠の隠滅を所長が指示したことになる。小島のポケットではスマホの録音アプリが静かに作動している。

「ではこの件についてご意見やご質問はありますか?」

 藤村事務長が聞いた。

「この件は前に話し合いましたよね?またぶり返すのですか?」

 いい加減にしてくださいと江口が言った。

「私もそう思います。調査でもなんでもすればいいでしょう。不愉快です」

 神田の発言で会議は終了した。

終了した直後に寺脇からグループにLINEが飛んだ。

『写真は消去しろ』

 しかし、その写真は既に岸谷の手から前沢を通じて鈴村にも、そして恐らく監督署にも渡っている。

 岸谷は青ざめていた。

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