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お仕置き(32)
令和06年02月01日
労働基準監督署は、無駄を極力省いて機能だけをコンクリートで囲ったような無機質な建物で、スーツ姿の職員全員がパソコンの画面を見つめる私語のない事務室は、業務の性質からか、決して気分が明るくなる雰囲気ではなかった。しかし弁護士と医師の名刺をそれぞれ出して、二人の指示で相談に来たと言うと、対応してくれた柿沼信彦という名札を首から下げた労災課の職員は、望月の予想通り、別室で丁重に話を聞き、証拠の写真を見、診断書を読み、録音を聞いてくれた。柿沼は無造作に老眼鏡を頭の上に乗せて、
「ところで、あなた自身が患者なのですね?」
といぶかしそうに言った。
「あ、はい。クリニックでは勇気を出して監督署へ行くよう指示されました。私の場合、行動することが治療の一環のようですが、職場復帰を考えると汗ばんで鼓動が速くなります」
しかしうつ病の患者はこんなところへ来られるものですかという指摘が次に繰り出されるのではないかと郁代は身構えた。労災も予算を伴うものである以上、監督署としてはできるだけ認定を避けたいという動機が働かないとも限らない。
そう言えば確か、証拠の録音の中に所長と前沢のこんな会話があった。
「…要はうつ病だと思いますが、そもそも、うつ病患者がこんな建設的…と言うより攻撃的な手紙を書くものでしょうか?私はこの文面を読んで、彼女の病名そのものが疑わしく思えてきましたよ」「詐病だとおっしゃるんですか?」
ひょっとすると柿沼担当官は、この会話に何か引っかかるものを感じたのかも知れない。しかし郁代は断じて詐病ではない。嘔吐、食欲不振、不眠、動悸、発汗、著しい気力の減退に苦しんだのは事実である。職場復帰をしなければと考えると、軽快したはずの症状は簡単にもどって来る。
ここは正直になるしかないと郁代は覚悟を決めて、
「一か月余りの治療と、力になってくれる職場の仲間の協力でここに来られるまで回復しましたが、朝、ベッドから起き上がる気力も、カーテンを開ける気力も、買い物に行く気力もなかったのです」
と言って真っすぐに柿沼を見た。すると柿沼は思いがけず好意的な目をして、
「分かりますよ、鈴村さん、新藤先生は信頼できる医師ですね」
と言った。労災は治療が長引くほど補償金額が高い。腕を落としたり足を失った場合と違って、交通災害の頚椎症や、うつ病など、レントゲンに写らない病名の場合は、患者自身が治療が長引くことをむしろ歓迎する傾向がある。
「決して詐病という訳ではなくて、なかなか症状が改善しない例が多いのです。症状が改善しなければ、医師も治癒とは言えません。それが現代の患者中心の医療です。特にうつ病などは、無理しないでゆっくりと心を休ませるのが治療ですから、医師の側から積極的に患者に行動を促すような方法は取りません」
不自然に長引くのは監督署としては困りますが、医師に損はありませんからね、と言ってから声を落とし、
「これは録音してないでしょうな?」
柿沼はいたずらっぽく笑った。すると郁代の気持ちは嘘のように楽になった。人間の距離は、ちょっとした本音が見えるだけで驚くほど近くなるものなのだ。
「私、今度のことで自分の心の弱さも思い知りましたが、職場に隠然と存在する不合理な支配にも気づきました。私の労災認定を手段にして、長年かかって作られた職場の歪んだ秩序を改善したいのです」
長年かかって作られた職場のゆがんだ秩序…。
確かに監督署で労災認定の仕事をしていると、労働者より会社の利益を優先させる歪んだ秩序に出会うことが多い。
宅配業者のベルトコンベアに巻き込まれて小指を骨折した労働者がいた。彼を病院に運ぶ乗用車の中で、会社の上司二人は悪いようにはしないから、骨折はマンションのドアで挟んだことにするよう指示した。彼は整形外科で言われたとおりに申し立て、私傷病として治療を受けたが、治癒した後も思うように小指に力が入らず、荷物を扱う業務に支障が出た。半年後、会社は若者を解雇した。約束が違うと若者は労災を請求したが、会社は認めるはずもなく、病院のカルテにはマンションのドアで挟んだと明記してあって、柿沼の力ではどうすることもできなかった。
柿沼は、懸命に職場の秩序に立ち向かう二十三歳の若者の健気な姿を前に、この福祉施設は許すべきではないと思った。
「鈴村さん、こう言っちゃ何ですが、あなた、よくうつ病程度で踏みとどまりましたね。若者の中には、ちょっと上司から叱られたくらいで自殺する者だって珍しくありません。しかも利用者をけしかけての嫌がらせでしょう?利用者から見ればこれは虐待ですからね」
「そうです、そうなんです。命令されて実行した利用者たちこそ被害者なんです」
「最近、福祉現場での虐待や不正受給のニュースが目につきますが、やはり知的障害者を閉鎖的空間でお世話するのですから、こういうことが多いのでしょうね?」
「いえ、私はいまの職場が初めてですので…」
すると柿沼は小さな声で、
「色々な職員がいるのは監督署も同じですよ。鈴村さんのような職員がいれば改善できるのですがね」
そう言って口元に笑みを浮かべた。郁代は目の前の初老の国家公務員に好意を持った。
「それでは…」
柿沼は様式第五号という厳めしい書類を郁代の前に広げ、再び老眼鏡を鼻に下ろして、
「事業主の証明欄は空欄にしてください。災害の原因及び発生状況の欄は別紙診断書の通りと書いていただいて構いません。新藤先生は診断書に続紙を付けて、職場で何があって、鈴村さんがどんなふうに発病したのかを時系列に実に要領よくまとめてくださっています」
こんな医師も珍しいですよと言った。
書類が完成すると、
「しばらく時間を頂きますが、通常は請求を受理して三週間後くらいに職場に資料提出を求め、さらに二週間程度経って調査を実施することになります。しかし、本件は事情が明確ですから、そんなに時間はかからないでしょう。目的は鈴村さんの労災認定ですが、利用者虐待についても問題になるでしょうな」
柿沼はそう言って『療養補償給付及び複数事業労働者療養給付たる療養給付請求書』という非常識に長い名称の書類を正式に受理してくれた。それから…と柿沼は立ち上がり、
「これは鈴村さんが告訴すればの話ですが…」
と前置きして、刑事事件として寺脇という職員を罰することもできますし、同時に民事事件として裁判で損害賠償も請求できますよと付け加えた。