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お仕置き(31)
令和06年01月29日
法テラスでの相談結果を聞いた望月は、
「頑張りましたね、鈴村さん。今の鈴村さんの状態では、自分の病気について初対面の弁護士に相談するだけでもとんでもなく勇気が要ったと思います。しかし見事にやってのけました。どうですか?気持ちが変化していませんか?何度も言いますが、問題の解決と心の治療は同時進行ですよ」
そう言われると、郁代は何だか自分の弱さを少し克服できたような気がする。
「医師から労災だと言われているが、職場が認めないので、どうしたらいいかと法テラスでは相談しましたよね?」
「はい」
「この言い方によって弁護士の心にはどんな構えができたと思いますか?」
望月にそう聞かれても郁代には質問の意図が分からない。
郁代が黙っていると、
「主治医が労災だと言っている訳ですから、労災認定に否定的なことを言えば、弁護士は医師という専門家と対立することになると考えたはずです」
望月が解説した。
なるほど、労災を職場が認めないのでどうしたらいいかとだけ相談すれば、弁護士は労災認定に肯定的なことを言うことによって職場との対立を想定しなければならない。
「分かりました。今度は弁護士が労災だと言っている事実が監督署で効果を持つのですね?だから望月さんは名刺をもらって来いと…」
察しの良い郁代の反応に望月は満足げに頷いた。
人間は個人で全ての責任を負うのは誰だって気が重い。職場が認めない労災を監督署の権限で認定する作業には相当な困難が伴うに違いない。これだけ証拠を整えても、その一つ一つについて関係する職員から事実と事情を聴取して記録する監督署の職員の苦労は想像に難くない。制度の適用に厳格な国家機関である労働基準監督署の職員が、その煩わしさを嫌って、まずは労働者自身で職場の証明を取る必要を匂わせるだけで、郁代の労災認定の道のりはとんでもなく険しいものになる。ところが法テラスで手に入れた名刺を差し出して、
「弁護士からも主治医からも労災だと言われていますが、職場が認めなくて困っています。そういう場合は労働者自身で労災を請求できるから、監督署に相談して、相談結果を報告するよう弁護士に言われて参りました。これが証拠です」
と切り出せば、監督署の職員は絶対に無責任な態度は取れなくなる。背後に医師と弁護士という権威ある専門家が存在していることを前提に、患者自身に相談させるのが、役所の姿勢を後ろ向きにさせないための望月の知恵なのだ。
「分かりました。早速、監督署へ行ってきます」
郁代が立ち上がると、
「あ、鈴村さん」
望月は郁代を呼び止め、一通の茶封筒を差し出して、
「監督署用の診断書です。証拠と一緒に渡してください。鈴村さんの仲間の努力で判明した職場での出来事にも触れて、症状と治療経過を先生が詳細に書いてくれました」
にっこりと笑った。
心強かった。
郁代はクリニックを出た。
いよいよ大詰めを迎えようとしている。
自転車に乗ると無性に小島直樹の声が聴きたくなった。
こんな感情は初めてだった。
思えば、郁代が激しく嘔吐して欠勤した翌日、アパートを訪ねてくれて、パンクしていた自転車を車に積み、修理屋に運んでくれたのは小島だった。自転車屋の主人から人為的なパンクであることを聞き、駐輪場へ何度も足を運んで防犯カメラの存在に気が付いたのも小島だった。そのカメラの映像が前沢の機転で決定的な証拠写真の入手に繋がった。こもれびクリニックを紹介してくれたのも小島だったし、寺脇が菅原真由美に嫌がらせを命じる録音を、魚住支援員からこっそり手渡されたのも小島だった。小島が魚住から信頼されていなかったら起きなかったことである。
考えてみたら、一連の出来事は、利用者にストッキングを被せるお仕置きは虐待ではないかと郁代が職員会議で問題提起したことから始まっている。それが発端で、一見平和な知的障害者の作業所も、一部の職員の利用者に対する暴力的な権力で秩序が保たれていて、異を唱えると、唱えた職員に対してまで水面下で卑劣な嫌がらせが加えられる現実が明らかになった。さらに、年金までの五年間を腰掛けのつもりで勤務する元公務員の所長には、波風が立つのを恐れて職場の不合理を改善しようとする意志がなく、良心的な職員が心を病んでも、力になるどころか、厄介者として排除に傾くこともしっかりと録音された。郁代を苦しめた出来事の、初めから今日まで、小島は一貫して味方であり続けていてくれる。
帰ったら小島先輩に電話して望月さんの考えを伝えよう。
そう思うと、自転車を漕ぎながらにわかに鼓動が早くなった。法テラスのときの冷や汗を伴った鼓動の異常とは違っていた。
アパートに着いて自転車を降りるなり郁代はスマホを取り出して小島に電話した。いつもなら迷惑にならないように極力メールで連絡をとるのに、ためらいもなく直接電話をしている自分に驚いていた。
「もしもし、先輩…」
「タイミングがいいなあ、ちょうどおれもいま郁代に電話をしようと思っていたところだった」
小島は郁代からの電話を受けるなりそう言った。
「え?何か?」
「いや、別に、元気かと思ってな、郁代こそ何だった?」
と言われて郁代は自分からかけた電話の用件が思い出せなかった。
自分は小島先輩の声が聴きたかったのだろうか…。
ほんのわずかの沈黙がとてもあたたかかった。
郁代は現実に戻るように、労災に向けた望月の計画と、それがいよいよ大詰めの段階であることを説明した。
久しぶりに心が弾んでいる。
「こっちはさ、いよいよ明後日はフェスティバルだ」
と聞けば、昔なら責任を放棄してしまった自分を激しく攻めるところだが、郁代の心は動じなかった。郁代が初めて仕事を休んだ日、自分の責任感に押しつぶされるんじゃないぞと小島は言ってくれた。郁代がいなくても社会は回って行く。人間、いつもどこかで、自分をその他大勢だと思ってないと簡単に孤立するとも言ってくれた。そのときは聞き流したつもりの小島の言葉は、郁代の中で確実に育っていたようだ。
職員の悪意でこれだけの被害に遭った。望月の言うように、職場の体質を根こそぎ改善することの方が、悪意に満ちた職場に身を置いて、中途半端にフェスティバルに関わるよりも絶対に有意義だと郁代は考えていた。
「郁代が休み始めてもう一か月を超えた。その間にクリニックを受診し、一人で法テラスに行き、今度は監督署か…。強くなったなあ」
「先輩や前沢さんのおかげです。感謝しています」
「寺脇のおかげかも知れないぞ」
小島は冗談のように言って笑ったが、郁代はそうかもしれないと思った。郁代は中学時代のトラウマを乗り越えるために寺脇に出会った。寺脇は暴力的で支配的な生き方を変更するために郁代に出会った。そして郁代も寺脇もそんな自分を形成した意識できない原因を抱えていて、お互いに行動で変えるしかないのだ。