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お仕置き(30)
令和06年01月26日
望月の手元に鈴村郁代のうつ病が業務災害であり、それに対して職場の対応は極めて不誠実であるという十分な証拠が集まっていた。労災は職場の証明がなくても労働者が直接労働基準監督署に請求できることを望月は知っていた。しかし、精神疾患の労災認定はハードルが高いことも事実だった。そこで望月は、
「ここからは、鈴村さんがいよいよ自分で行動しなければならない段階になりますが、いいですね?」
そう前置きして、
「法テラスという機関をご存じですか?」
と郁代に聞いた。
「ええ、名前だけは…」
「そこには弁護士がいて、三回までは無料で相談に乗ってくれます。収入や資産の条件がありますが、初任給で単身アパート暮らしをしている鈴村さんは間違いなく該当します。この写真と録音を持って法テラスに行き、主治医には労災だと言われたが、職場が労災を認めないのでどうしたらいいかと相談してください。いいですか?医師が労災だと判断していることを必ず伝えてくださいね」
「分かりました。しかし、これだけの証拠を提示しても職場は認めないのですか?と聞かれたらどうしましょう?」
「録音を聞いて頂けば分かりますが、責任回避を真っ先に考える所長なので、証拠を示せば、加害者たちと謀って事実の隠蔽を画策しかねないから、うっかり提示できないのだと答えてください」
望月はそう言うと、必ず弁護士の名刺をもらって来るように付け加えた。
郁代にも望月の意図が次第に分かって来た。
望月は労災認定を武器にあすなろ作業所の体質の改善を考えている。組織を外部から改善しようとすれば権力が要る。行政は書類中心の事務監査に過ぎないし、裁判は長い期間と費用をかけて消耗したあげく寺脇一人しか裁けない。労災適用によって行われる監督署の職場調査なら、郁代に対して行われた嫌がらせの経緯と作業所全体の労務管理体制が浮き彫りになる。そうなれば法人本部を巻き込んで大規模な組織改善が行われるに違いない。
そのプロセスに、郁代は被害者ではなく改善を目指す当事者として取り組むことになる。郁代は、やさしさと、正義感と、対立を恐れるという、三つの感情を統合できないで病的な無気力状態に陥っているのだと新藤医師は考えている。望月は、臨床心理士のように、そうなった原因を過去に遡って分析するのではなく、当事者として自分の問題に立ち向かう行動を通じて郁代の心の改善を図ろうとしていた。
そのためにはこれから先、職場や監督署との交渉に臨む前提として、郁代のうつ病は業務災害であるという法律家の判断が欲しい。
郁代は法テラスに電話をして予約を取った。
それだけでもヒリヒリするほど喉が渇いた。
薬で睡眠を確保し、小島や前沢や望月に支えられて、症状は随分改善したつもりでいたが、いざ法テラスに出かけようとすると、郁代の心臓は周囲に鼓動が聞こえるのではないかと思うくらい激しく脈打ち始めた。息苦しくて肺に酸素が取り込めない。額に冷や汗が出る。郁代は何度も深呼吸をしながら自転車を漕いだ。
法テラスは区役所の建物の一角にひっそりと看板を掲げていた。ドアの前まで来ると鼓動は一層激しくなった。寺脇との…いや、自分自身の弱さと対決する第一歩が始まろうとしていた。
「ここからは、鈴村さんがいよいよ自分で行動しなければなららない段階になりますが、いいですね?」
という望月の言葉が聞こえた。
郁代はもう一度大きく深呼吸して思い切って重いドアを開けた。頑なに閉ざしていた自分の心の扉を押し開けたような気がした。
「あの…予約した鈴村ですが…」
受付で所得と資産を証明する書類を手渡して、案内された狭い面接室のパイプ椅子で背筋を伸ばしていると、
「お待たせしました。弁護士の宮田真理子です」
黒いスーツを着た、ショートカットのよく似合う若い女性が入ってきて机を挟んで郁代の前に座り、
「どうぞ、緊張しないでくださいね」
言いながら名刺を差し出した。
どんなご相談ですかと聞かれて郁代はプリントアウトした証拠の写真を机に広げ、録音を再生しながら概略を説明した。
相談時間は三十分しかないと思うと、緊張は極限を超えていたが、郁代は額の汗を拭きながら緊張に耐えた。その様子を見て宮田は郁代の心理的ダメージの深さを感じた。目の前の二十三歳の若者は、自らの限界を超えて問題解決に挑んでいる。
「録音は早送りして聴きますが、編集してなくて良かったです。編集すると信憑性が半減しますからね」
一通り聴き終わった宮田弁護士は、
「主治医は労災だと言ってるのですね」
「はい…し、しかし職場は認めません」
「落ち着いて、深呼吸してください」
宮田は郁代を気遣いながら、予想通り、これだけの証拠があるのに職場は認めないのかと聞いた。
「いえ、証拠は…職場には…て、提示していません」
「そうですか。そうですね。確かに、録音から判断すると、この所長に証拠を開示するのはリスクでしょうね」
政治的な解決を図り兼ねないと宮田は言った。
「福祉施設なのに、これはかなり悪質な職場ですね」
宮田は腕を組んで少し考えていたが、
「労災は、職場が認めない場合は認めないまま、労働者が直接労働基準監督署に請求することができます。私からそう言われたと言って、この証拠を持って監督署で相談してください。監督署は該当の請求用紙をくれるはずです。監督署の職員の名刺をもらうのを忘れないことと、それから弁護士から相談結果の報告を求められていると冒頭で伝えてから相談してください」
力強く言った。
郁代は懸命にメモを取ったが、手が震えて左手で書いたような筆跡になった。
相談を終えると約束の時間を十分ほど過ぎていた。