お仕置き(29)

令和06年01月24日

 郁代が休み始めてひと月以上が経過していた。

 明後日に迫ったあすなろフェスタは、結局、職員の出し物を変えるだけで、昨年のシナリオ通り進んでいた。

 郁代はこもれびクリニックの相談室にいた。

 メールで郁代の元に届いた職員会議の結論をプリントアウトして望月に渡し、前沢と小島が届けてくれた所長の会話と職員会議の録音を望月に聞かせると、望月は目を輝かせて、

「いよいよ最終段階ですね」

 と言った。

「どうですか?鈴村さん、手紙をやり取りし、会議の結論を読み、録音を聞いて、どんな気持ちになっていますか?」

 聞かれて郁代はひどく冷静に自分の置かれている状況を眺め下ろしていることに気が付いた。思いを文字にするということにはこういう効用があるのだと改めて思った。しかも日記と違って手紙には相手がある。何事かを伝えようとすれば、状況だけでなく、相手の立場や自分の気持ちに対してまで客観性が要求される。郁代に手紙を書かせることには、自分の状況を客観視させるという望月の狙いがあるのだと郁代は気が付いた。

「こんな人たちを許してはいけないと思います」

 郁代は自分の言葉の強さに驚いていた。

「では懲らしめましょう」

「え?」

「職場の提案はメールで拒否してください。録音から分かるように全く誠意ある提案ではありませんからね」

 望月はそう言いながら、ホワイトボードに黒いマーカーで『労災』と書いた。

「正しくは労災保険と言って、業務上の傷病等に対して補償する国の制度です。労働基準監督署が窓口です。鈴村さんのうつ病は、今は健康保険で治療していますが、業務上の傷病であることが明確になりましたから、医療機関としては健康保険扱いはできません。治療費は労災保険に請求することになります。通常、業務上で傷病を負った労働者は、事実を職場に報告しなければなりませんが、職場がそれを認めない傾向があるのです」「…」

 労災保険は社会福祉士の受験科目の中の社会保障という教科書で学んだことがある。病気の治療は原因によって分かれていて、私傷病は健康保険、業務上の傷病は労災保険が適用になる。労災保険は国が運営する保険制度であり、人を雇う者の責任として雇用主が加入するので、労働者には保険料の負担も治療を受けた場合の自己負担もない。労働者から業務上で怪我や病気をしたと報告があった場合には、雇用主はそのことを労働基準監督署に報告する。一方、労働者は労災認定を監督署に請求することになるが、請求の様式に、それが業務上であることの職場の証明欄があるために、職場が認めなければ請求できないと諦めてしまう労働者が多い。治療に伴う収入の減少や、後遺症などの損害についても補償があって、労働者にとっては大変手厚い制度であるが、労災認定を請求すると、労働災害発生の経緯について監督署の調査が入り、適用になると自動車保険同様、保険料が若干上がる。だから雇用主は調査と保険料の増加を嫌って、業務上の傷病であることを認めたがらない。労働者も労災を嫌う雇用主を忖度して、業務上の傷病であることを医療機関で申し立てない。

「鈴村さんの場合、これだけ証拠が整っていれば間違いなく労災適用になりますから、手続きをして監督署に職場の調査をしてもらいましょう」

 望月はそう言うと、

「前沢さんにはご足労ですが、もう一度所長を訪ねて頂いて、鈴村さんが自分の治療は労災ではないかと言っていますが、いかがでしょう?と聞いてもらってください」

「職場の証明が必要なのですね?」

「いえ、証明を求めるのなら証拠を突き付けますよ。目的は事なかれ主義の所長の、職員の権利に対する認識を確かめたいのです」

 だから必ず録音してくださいね、と望月は付け加えた。

 望月の指示を郁代からメールで受け取った前沢が、翌日、所長室を訪ねると、所長はがっかりした表情でこう言った。

「鈴村さんからは、せっかくの提案を拒否されましたよ。結局、半日勤務だとか、該当の利用者とは距離を置くという条件では、出勤する自信が持てないということらしいですが、振り回されるこちらはたまりません。復帰するのかしないのか、こうやってぐずぐず時間ばかりが過ぎて行くのがメンタルを病んだ患者の特徴ですから困ったものです。こうなると、神田さんが言うように、ご本人が自ら復帰を断念してくれるといいのですが…」

 郁代の返事は市川所長より先に知っていたが、前沢は初めて聞くように表情を曇らせて、

「そうでしたか…残念です。実は、私の方には昨日、鈴村さんからメールが届きまして…」

 自分の治療は労災ではないかという郁代の質問を伝えた。

「労災?」

 市川所長は厳しい顔をして、

「つまり、彼女は業務に起因してうつ病を発症したと言ってるんですか?」

 まるで前沢がそう言っているかのように聞いた。

「ま、労災ということは、そういうことになりますね」

「あり得ないでしょう。労災はそんな安易なものじゃない。例えば同じ状況に置かれても、発病する人としない人がいる。つまり、その人の個人因子が大きく関わっているということです。機械に挟まれて腕を落としたような場合や、長時間の残業が非常識に継続して過労死したような場合は別として、精神的な疾患については、業務が原因で発症したなんて認定される可能性はゼロに等しいでしょう。職場が労災を認めるということは、発病するほど彼女を精神的に追い込んだという事実を認めるということです。私はその職場を総括する所長であり、君は現場を統率する責任者です。一人の職員が心を病んで深刻な事態に陥るまで、二人の監督者が何も気づかなかったなんてことはあり得ないでしょう。逆に言うと、職場が労災を認めるということは、私も君も彼女の窮地に気づきもしないで放置したことになる訳です。それに労災となれば監督署の調査も入って、厄介なことになります。残念ながら職場は労災を認めるつもりはないということを鈴村さんにはっきりと伝えてください」

 やはり所長は自分に責任が及ぶことを恐れている。

「しかし、本人は業務上の疾病だと言っているのですから、所長の独断で門前払いするのではなく、職員会議を開いて、彼女が精神的に追い込まれて行く様子について職員たちの心当たりを聴いてみるくらいのことはしておいた方が後日のためにも良くはないでしょうか?」

「いや、そんな必要はないでしょう。彼女が書き出した数々の嫌がらせだって、直接の加害者は利用者ではありませんか。仮に彼女の言うように、それを命令した職員がいたとしても、名乗り出るはずもなければ証拠もない。職員会議を開いてみても徒労に終わります」

 ま、やめておきましょう、と言って、所長は机の上のパソコンを開いた。この話はもう終わりだという合図だった。

「ではその旨を鈴村さんに伝えます」

 とドアを閉める瞬間までのやり取りは全て録音された。

前へ次へ