お仕置き(28)

令和06年01月22日

 郁代は翌日手紙を持って望月と面会した。今が大切なときと思ってか、望月は遅い時間ではあるが、時間を融通して会ってくれる。

 手紙を読んだ望月は、

「やはり、この人は信頼できませんね」

 と言った。

 慣れた文章で誠意ある何事かを訴えているように見えて、内容は極めて不誠実である。要するに郁代の要望には何も応えない代わり、謝罪も約束も所長がして、それを全職員に配信するから、早く職場復帰をしたらどうだと言っているに過ぎない。自分の責任回避を中心に物事を考えている人は、どんな場合も事態に向き合おうとはしない。この場合、利用者に命令して嫌がらせをさせた職員が明らかになれば、所長として戒告か訓告か厳重注意か…とにかく何らかの処分を考えない訳には行かない。ましてや利用者に命じて職員に対して執拗な嫌がらせを繰り返したとなれば、利用者虐待として市にも本部にも報告しなければならなくなる。そうなれば所長の監督責任を問われるのは免れない。所長としては、できれば何事もなかったように済ませたいのだ。

「それでは鈴村さん、次は鈴村さんの手紙を職員に公開して職員会議を開催してもらいましょう。そこで復職に向けた受け入れ体制を考えてもらうのです」

 望月には郁代に手紙を書かせたいという意図があるようだ。

『前略

 お手紙を受け取りました。所長さんが謝罪の上、約束して下さるという内容には心打たれましたが、私は職場内で自分の身に起きたことをまずは職員のみなさんに知って頂きたいという気持ちをどうしても譲ることができません。新人職員が心の弱さ故に精神的に病んで休職しているというふうには思って頂きたくないのです。つきましては、この際、二つの条件にはこだわりませんので、この手紙を含めて私の手紙を全て職員会議で公開した上で受け入れ体制について検討して頂きたいと思います。みなさんが検討下さった内容を見て、少しずつ職場復帰を果たして行けたらと考えています。私にとっては社会人になって望んで就いた最初の職場です。こんな形で終わるのは、これから先の生き方にも影を落とすように思います。法人本部に苦情処理の窓口があることは承知していますが、問題が職場を超えて広がるのは好ましくはありません。所長さんの英断で、是非私の希望を叶えて頂きたく再度お願いする次第です。

草々

○年○月○日

鈴村郁代


あすなろ作業所

所長 市川正義 様』

 二度目の郁代の手紙を読んだ市川所長は、これまで見たことのない険しい顔をして前沢に言った。

「職員会議は前沢くんが進行するんでしたよね」

「はい」

「それでは希望通り手紙を公開して職員会議を開くと鈴村さんにはメールで伝えて、明日にでも臨時の会議を招集してください。ただし、本人が条件にはこだわらないと言っているのですから、くれぐれも犯人捜しの方向に議論が向かわないように進行役としては気を付けてください。それから鈴村さんの職場復帰のための受け入れ体制としては、どうでしょう、最初の一か月は半日勤務で様子を見るとか、これまで鈴村さんに嫌がらせを行った利用者とは絶対に接触しないよう配慮をするとか、そんな辺りを落としどころにしてくれると有難いです。本部の苦情処理の窓口なんかに相談されたら面倒なことになりますからね」

 市川の発言は前沢のポケットの中で静かに録音されている。

 翌日は小島のポケットでスマホの録音機能が作動し始めた。

「ええ、急遽お集まり頂いて恐縮です。お手元の三通の手紙のコピーは読んで頂けたでしょうか?鈴村さんは別紙にあるように大変な被害に遭って、不安障害からうつ病という診断に変わって現在休職中ですが、利用者に嫌がらせを命じた職員の謝罪と、二度とこのようなことはしないという約束の二つを条件に職場復帰を果たしたいという内容の手紙が所長宛てに届きました。所長は、鈴村さんの思い込みだけで犯人捜しをすることには難色を示されて、所長の謝罪と約束で収めてもらえないかという内容の手紙を鈴村さんに返信されました。そして今回、鈴村さんからの二通目の手紙に従って職員会議を開いている次第です。もう謝罪と約束という復帰の条件にはこだわらないので、皆さんには鈴村さんの身に起きていたことを理解した上で、職場復帰のための受け入れ体制を検討して頂きたいのです」

 前沢による会議の趣旨の説明を聞いて、岸谷は激しく動揺していた。約束通り、パンクの件は被害のリストには入っていなかった。それには安心したが、所長はどうやら写真の存在を知らないでいるようだ。しかし前沢が駐輪場の映像と引き換えに手に入れた証拠写真を所長に見せないなどということがあるだろうか。写真は当然鈴村に転送してあるはずだが、鈴村は手紙に写真を同封せず、悪意ある職員の命令だと確信している…とだけ記している。ということは、写真は前沢の手元から外には出ていないということになる。なぜだ?前沢は何を考えている?と、そのとき神田由紀が発言した。

「鈴村さんの被害が耐えられないほどひどいものだったということは分かります。でもそれは利用者がやったことでしょう?誰かが命令して利用者にやらせたなんてのは鈴村さんの妄想です。そして妄想を抱くことが心の病気の症状なのです。精神を病んだ人の被害妄想を真に受けて、大げさに会議を開いていることに私は違和感を感じます。妄想は受け入れ態勢の問題ではなく治療の対象です。こんな妄想を抱いている人には、私は職場復帰よりも辞職して頂くべきだと思います」

「同感です」

 江口が同調した。

「鈴村さんの確信通り、利用者に命令した職員がいるのなら、この中にいるということになります。名乗り出てもらおうではありませんか。言っておきますが、私ではありませんよ。だったら寺脇さんですか?岸谷さんですか?前沢さんですか?どうですか?疑われるのは不愉快ですよね。こんなふうに疑われることこそ最大の嫌がらせだと思います。いま我々は休職中の鈴村さんにこの上ない嫌がらせを受けているのです」

 江口の挑戦的な物言いを聞きながら、岸谷は気が気ではなかった。前沢は嫌がらせの本当の加害者を知っている。知っていながら、何らかの理由で事実を伏せている。

 何も発言しない岸谷に寺脇は不審を抱いたが、そんな気持ちを払拭するように、

「神田さんも江口くんも議論の方向が間違っているんじゃないか。鈴村さんは二つの条件を既に撤回している。冒頭の前沢さんの話をみんな聞いていなかったのですか?犯人捜しはしないで、鈴村さんを受け入れる体制について検討するための会議です。さあ、どんなふうに受け入れるかを考えましょう」

 寺脇の大声が所長の思惑通りの方向に会議を誘導した。

「受け入れ体制と言っても、私はやはり妄想があるうちは無理だと思います。復帰すればありもしない悪意に怯えて再び体調を崩すでしょう。何度も申し上げているように、私は完全に病気を治してから復帰を考えるべきだと思います。その目途が立たないなら、一人欠員のまま仕事を回している残った職員の苦労を考えて欲しいと思います」

 神田の意見は終始一貫している。

 要するに辞めてもらいたいのだ。

「しかし本人は職場復帰を望んでいるのですから、協力すべきではないでしょうか」

 例えばしばらくは午前中だけの勤務にするとか、あるいは鈴村さんに不愉快な行為を行った利用者からは遠ざけるとか…と前沢が水を向けると、

「なるほど、それは名案ですね」

 すかさず所長が言った。

「どこの職場にも心を病んだ職員はいます。浮いた魚だと思わなくてはなりません。川が汚れているから弱い魚から順に浮くのです。放置すると明日は次に弱い魚が浮くことになります。なにが鈴村さんの心の負担になったのか。どうして特定の利用者からひどい嫌がらせを受けたのか。ひょっとすると利用者にしてみると嫌がらせではなく愛情表現だったのかも知れません。鈴村さんの立場や、利用者の立場になって、その辺りをよく考えてみることが職場環境の改善につながると思います。前沢くんが例示した案ではどうでしょう。しばらくは午前中だけの勤務にするとか、不愉快な行為を行った利用者からは遠ざけるとか…。私は鈴村さんに提案してみる価値があると思いますがね」

 所長の発言には誰も逆らえない。

「では、そのように鈴村さんに提案すると言うことで、異義はありませんね?」

 前沢が会議を締めくくるまでの一部始終は小島のポケットで録音された。

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