:::::仕事の境界をめぐって:::::

 マーガレット・フォースター作の『侍女』という本があります。1840年代から数十年にわたり、詩人のエリザベス・ブラウニングという女性に仕えた実在の使用人の手記、というかたちをとった伝記小説です。ヒロインのウィルソンは、あれこれあって、海外に移住する女主人夫妻にただひとり随行し、英国からイタリアに渡って仕え続けることになります。そして、異国の地で知り合った同業の女性にこんなことを言われるのです。
「馬鹿ね、そんな甘言にのせられて。私が見たところ、あんたの御主人様とやらは一人分の手当てで三人分の働きを手にしているわね。あんたは一体何なの。料理人? お針子? 女中頭? それともレディズ・メイド? 大事にされてるつもりなんだろうけど、私にはそうとは思えないね。私も同じメイドだけど正当に扱われて、都合よく利用されてないわ。幸いなことにね」
 ウィルソンは、奥様への敬慕と「正当に扱われていない」という思いに引き裂かれ、悩み、それが作品全体のテーマともなっていきます。使用人を主人公にした物語の醍醐味の部分でしょう。しかし、今回の主題はそこではなく、ここでいう「正当な扱い」、「それぞれの正当な仕事内容」は実際のところどうだったのか? ということです。いくつかの資料をくらべあわせれば、あるていど職種によって共通する相場や仕事内容があったことはわかりますが、前項でも述べたとおり、個人の家庭で働く仕事ですから、実態は家によってあまりにもバラバラです。複数の職場を渡り歩いたベテランの執事や料理人、ハウスキーパーならいざ知らず、仕事を始めたばかりで他の家との交流がない下っぱメイドや、海外で働く家事使用人となると、自分の給金と仕事内容がつり合っているのか、自分がやらなければいけない仕事はどこまでなのか、あまりわからなかったのではないかと思います。
 お家の個性によるローカルルールに端を発する不具合には、現代日本に暮らす私たちには理解しにくい、風変わりなエピソードがいろいろあります。たとえば、1848年の「オブザーバー」紙には、ある執事が、自分を解雇した主人を告訴したという記事が出ていたそうです。解雇されたきっかけは、執事が「キッチンに行ってレモンを絞ってくるように命じられ、それを拒否した」からだといいます。彼は主人の横暴を治安判事に訴えました。
「はっきり申し上げます、閣下。わたしは、自分の旅行鞄を、半マイルも運ぶように強制されたのですよ。しかも、あのレモンは、パンチをつくるためだったんです」

 私も首をひねりましたが、判事も同じ反応だったようです。同時代の英国でも、家を一歩出れば通じない、ローカルな俺ルール。執事は結局この訴訟事件に勝つことはできず、ひどく傷つけられた様子で法廷をあとにしました。彼は(使用人の中でいちばん偉い職種ですから)自分で定めたローカルルールにのっとり、自分の地位と職分をかたくなに守ろうとした、ということなのでしょう。ただ、主人の胸ひとつで労働条件が決まってしまう家事使用人の世界では、使用人が主人を訴えるというのはレアなケースであったようで、実際、ひどい辞めさせられ方をしたメイドの話も多々あり、その場合は訴訟費用などありませんから泣き寝入りだったことでしょう。
 では下級の使用人たちはどうか、というと、やはり「この仕事は誰がやるべきか」という境界をめぐり、あちこちで衝突が起きていました。気位の高い侍女は、ひとり以上のレディの世話を担当することを猛烈に嫌っていたといいます。モーリエによる1863年の有名な風刺画に「女性使用人が石炭を重そうに下げ、それを横目に小さな手紙を盆にのせたフットマンが階段を登る」という状況が描かれたものがあります。使用人に関する資料をひいているとよく出て来る絵なので、目にするたびに「手伝ってやれよ!」とフットマンくんに突っ込みたくなります。まあ、これはあくまでも風刺のためにつくられた捏造シチュエーションであったらしいのですが、職分の境界は、確かに家の規模ごとに存在したようです。
 『ヴィクトリアンガイド』にも少し書きましたが、働く男女がひと所に集まれば、すぐにグループを形成して、上下をつけたり対立したりというのは、自然の成りゆきというものなのですね。

2003.12.1
参考資料:Margaret Powell『Below Stairs』
Frank Dawes『Not in front of the Servants』
マーガレット・フォースター『侍女』


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