上杉謙信 Kenshin Uesugi 上越市



上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城
🔗関東派兵、北条氏・武田氏との戦い 🔗天下平定 🔗合戦地図

享禄3年(1530)1月21日〔生〕~天正6年(1578)3月13日〔没〕

(誕生~越後国統一)

(謙信誕生)

上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日、越後守護代長尾為景の末子として、春日山城で生まれた。母は栖吉城主長尾顕義の娘寅御前(青岩院)である。幼名寅千代と名乗った。謙信は幼い日々、母の手もとで育てられた。寅御前は観音菩薩の信者で、新人深い人であった。(後に景虎、政虎、輝虎、謙信と名乗りを変えるが、ここでは謙信を通して使用させてもらう。)
父の為景は、越後守護上杉房能、定実(房能の養子)を助け国内の統一を進めたが、その後上杉房能に対し謀反をおこし、自害に追い込んでいる。また、弟の報復をしようと越後に乗り込んできた関東管領上杉顕定を、戦場で誅殺。主人二人を殺すという戦国最大の奸雄と言われた。定実を守護職に就け、傀儡としたが、のちに定実と対立するようになり、戦乱は収まらなかった。
謙信が生まれた頃は、定実の実家上条城※GOOGLE 画像 主上杉定憲との間で合戦が行われ国内は乱れていた。
天文5年(1536)8月、父為景は守護代長尾家の家督を嫡男晴景に譲るが,12月24日に上条上杉の上杉定憲との戦乱のやまないうちに病死する。
上条軍が為景の葬列に押し寄せたが、6歳の謙信が甲冑を身につけて棺を守ったとされる。
後をついだ長尾晴景(当時25歳)は病弱で器量のないことがわかると、中条藤資・本庄房長・色部勝長らの揚北衆は晴景の命令に従わず、そのうえ春日山城に参勤せず、わがままな振る舞いの限りを尽くした。
この年、7歳の謙信は、春日山城下の長尾家菩提寺林泉寺※GOOGLE 画像 に入り、名僧天室光育禅師のもとで厳しい禅の修行と文武の道を学んだ。林泉寺は謙信の祖父能景が明応6年(1497)、に建立したもので、長尾家の菩提寺である。謙信の素養は、この時培われたといってもよい。

(景虎栃尾入部)

天文12年 (1543)謙信13歳のとき、晴景は揚北衆を制するため、中越地区の拠点であった本庄実乃の栃尾城※GOOGLE 画像 に弟の謙信を派遣し、当地を管理する古志長尾氏の養子にし、国内支配を強化しようと考えた。
天文13年(1544)、14歳の謙信は元服して平三景虎と名乗りを改めた。雪が消えると近隣の武将達が謙信を若輩と侮り、方々から攻撃を仕掛けてきた。栃尾城主本庄実乃、三条城主山吉行盛や母方の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、敵を見事に撃退して初陣を飾った。
天文14年(1545)謙信15歳、上杉房能の時代以来守護に仕えてきた老臣である黒滝城※GOOGLE 画像 の城主黒田秀忠が、長尾家に反旗を翻し、晴景の弟長尾景康・長尾景房らを殺害した。守護代長尾晴景が病弱で優柔不断なことから守護代の器でないと見こし、謀反を起こしたといわれる。
謙信は杤尾を出て春日山に登り、上杉一門の桃井などと謀ったうえ村山与七郎に命じて、居城黒滝城(西蒲原郡弥彦村)を攻めさせた。黒田は頭を丸めて出家し、他国へ逃れたいと懇願したので、景虎らは黒田を許した。
天文15年(1546)2月、黒田は再度黒滝城に立て籠もって反攻に立ち上がった。謙信は黒滝城を攻め落とし、黒田一族ことごとくを自害させている。

(兄晴景との対立)

栃尾城での謙信の人望が日増しに高まると、謙信の叔父高梨政頼や揚北衆の中条藤資、母の実家栖吉城主長尾景信らは、謙信擁立を企てた。栃尾の本庄実乃はもちろん、三条の山吉氏、母の実家栖吉の長尾景信、与板の直江實綱など中部の実力者、及び揚北の国人の中からは奥山荘の中条藤資も之に加わり、府内の守護所で財政機関を握っていた大熊政秀なども景虎方となった。こうして景虎を中核として一大勢力が中越地方の武士たちを中心に出来上がった。
一方、晴景は妹(後の仙桃院)の嫁ぎ先である坂戸城主長尾政景らの支援をうけ、謙信討伐を決意するに至った。府内方は上田庄の長尾政景の他に、奥山荘で中条氏と抗争していた黒川清実であり、府内、頸城郡の大部分の武士たちもこれに加わった。

(春日山城に入り国主となる)

両勢力の衝突は、天文17年(1548)に起こった。晴景と謙信との対立が起これば、それに乗じて上杉定実の地位も危うくなる。定実は両者を和解させるべく、賢明に晴景を説得し、ついには晴景は病気療養のため引退することになり、謙信を養子として長尾家を継ぐことになった。
謙信は天文17年(1548)12月晦日、18歳のとき春日山城に入り、兄晴景(当時39歳)に代わって守護代長尾家を相続した。以後、49歳で死去する間での30年間、春日山城を根拠地に越後を統治する一方、 京都・信州川中島・関東・北陸へと兵をすすめた。この間70余回戦ったといわれている。
しかし謙信の権力掌握はすんなりとはいかなかった。謙信の後ろ盾として担ぎ上げた古志郡の武士団と魚沼郡上田庄長尾政景との間で激しい抗争が続いた。
天文19年(1550)2月26日、謙信20歳の時、守護上杉定実が失意のうちに死去し、越後守護上杉家は断絶した。実権は全く謙信のものとなった。定実死去の2日後、幕府も白傘袋、毛氈鞍覆の使用を許して国主大名としてこれを認めた。
この年の12月、一族の長尾政景が坂戸城※GOOGLE 画像 にたてこもり、反乱を起こした。謙信の母の実家である栖吉長尾家の勢力が、大きくなったことへの反発からであった。
翌天文20年(1551)8月、長尾政景は誓詞(起請文)を謙信に送り、降伏した。謙信が長尾家を相続して以来、くすぶっていた長尾家一族内の葛藤を取り除くことができた。

信仰

禅門と密教に帰依し、41歳の時、林泉寺住職宗謙から一字をいただいて謙信と号し、45歳の時に高野山の無量光院の住職清胤を師とし、剃髪して僧形となった。さらにまた毘沙門を信じ、軍旗は「毘」、隊旗「刀八毘沙門」と書いたものを用い、謙信がいる本陣に隊旗を立て「我を毘沙門と思え」といったという。
外に軍旗として「龍」を使用したが、「龍」は仏法で不動明王を示し、敵国退散の守護神を意味している。戦場で、「毘」と「龍」をいただいた兵が、仏法の力で敵を撃破退散させたいと謙信は考えていた。
また謙信が用いた軍旗「龍」は懸かり乱れ龍と言われる旗である。上杉軍が敵に総攻撃を仕掛ける際、上杉軍の本陣に立てられた旗印である。合戦の突撃の合図に使用されたという。

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