水戸藩諸生党と北越戦争



慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、水戸藩では藩内抗争の勝者となった尊王攘夷派(天狗党系)と、旧幕府への忠誠を貫く佐幕派(諸生党)との対立が決定的となった。
水戸藩政を掌握していたのは、執政市川三左衛門弘美、家老佐藤図書、朝比奈弥太郎らを中心とする諸生党であった。彼らは徳川家への忠誠を重視し、幕府の権威が揺らぐ中でも佐幕姿勢を崩さず、尊王攘夷派を「藩内の反逆者」として厳しく弾圧した。捕縛や処罰は藩士本人だけでなく、その家族にも及び、藩内には深い対立と遺恨が残った。
しかし、慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令によって情勢は一変した。新政府は徳川家排除の方針を打ち出し、諸生党は旧体制を守ろうとする「朝敵」とみなされる立場となった。水戸藩では改革派が復権し、諸生党への追討命令が出されると、市川三左衛門率いる約500人の諸生党士は水戸を脱出した。
一行は会津藩を頼って北上したが、会津藩も新政府への恭順嘆願を続けている最中であり、諸生党を城下へ迎え入れることはできなかった。3月17日、会津領へ入る勢至堂峠で足止めされた市川勢に対し、会津藩は領内通行のみを許可した。
3月21日、市川勢は会津坂下に到着した。会津藩は佐川官兵衛を派遣し、事情を説明するとともに、資金1000両と道案内を提供し、越後の水原陣屋へ向かうよう勧めた。会津藩としては、諸生党を見捨てるのではなく、直接的な関与を避けながら支援する苦しい対応であった。
3月24日には津川、29日には水原代官所へ入り、9日間滞在した。その後、新潟湊、内野、赤塚、弥彦を経由し、4月16日に桑名藩領寺泊へ到着した。
途中、会津藩士鈴木丹下から佐渡奉行所の金銀を軍資金として利用する案が示され、4月26日には筧助太夫率いる約100人が佐渡へ渡った。しかし佐渡奉行所との交渉は難航し、金銀の提供を受けることはできず、5月10日に撤退した。

出雲崎代官所の占拠

閏4月3日、市川三左衛門、大森弥三左衛門ら諸生党幹部は、寺泊から出雲崎へ移動した。しかし、この時すでに出雲崎代官所には、幕府の遊撃隊系部隊である衝鋒隊が入り込んでいた。衝鋒隊は幕府再興を掲げて越後へ入り、各地で軍資金や兵糧の調達を行っていたが、出雲崎でも代官所に対して金銭の提供を求め、そのまま居座っていた。
市川三左衛門は、出雲崎を水戸勢の拠点にするため、衝鋒隊に退去を求めた。諸生党は同じ佐幕派ではあったものの、統制の取れない衝鋒隊をそのまま置くことは軍事上の障害になると判断したのである。衝鋒隊は市川勢の圧力を受け、出雲崎から離れることとなった。
その後、市川は出雲崎代官所の明け渡しを要求した。しかし、代官所の留守役を務めていた篠原仙之丞はこれを拒否した。
篠原にとって出雲崎代官所は、長年幕府の権威を背景として管理してきた行政施設であり、たとえ幕府の力が衰えていても、勝手に軍事拠点として明け渡すことは認められなかった。また、諸生党は正式な幕府役人ではなく、単なる一藩の軍勢に過ぎないという認識もあったと考えられる。

実力による占拠

市川らはいったん寺泊へ戻ったが、出雲崎陣屋を確保する必要性から、5月6日、約200人の兵を率いて再び出雲崎へ進軍した。
しかし篠原仙之丞との交渉は進展しなかった。市川は次第に強硬姿勢を強め、翌5月7日、自ら兵を率いて代官所へ乗り込んだ。
諸生党兵は陣屋内へ入り、市川は「ここを水戸勢の本陣として使用する」と一方的に宣言した。兵士たちは陣屋建物を宿舎として使用し、出雲崎代官所は行政施設から軍事拠点へと変貌した。
篠原は最後まで抵抗したが、状況を変えることはできなかった。
そこへ会津藩士有賀円次郎が訪れ、篠原に対して、すでに幕府は崩壊し、出雲崎・水原などの旧幕府領は会津藩の預かり地になっていると説明した。そして、今後は会津藩が管理することになるため、代官所を引き渡すよう求めた。
幕府の命令によって勤務してきた篠原にとって、会津藩の支配へ移行した以上、これに逆らうことは困難であった。最終的に篠原は不本意ながら明け渡しに応じた。
こうして出雲崎陣屋は水戸諸生党の本営となった。

出雲崎陣屋を拠点とした活動

諸生党は出雲崎を拠点として、周辺地域への軍事行動を開始した。
主な目的は、新政府軍の進撃を阻止し、柏崎方面の防衛線を維持することであった。出雲崎は海岸沿いの交通路を押さえる位置にあり、柏崎・寺泊・長岡方面へ兵を動かすうえで重要な場所であった。
諸生党はここから柏崎方面、鯨波方面、さらに椎谷藩方面へ出兵した。特に新政府軍との衝突が予想された柏崎周辺では、会津藩・桑名藩勢力と連携しながら戦闘準備を進めた。しかし、越後戦線全体の情勢は旧幕府側に不利であった。高田藩を中心とする新政府軍は越後各地へ進出し、長岡藩や桑名藩など旧幕府側諸勢力との戦闘を開始していた。

佐渡へ渡る

4月26日、水戸藩脱藩浪士からなる諸生党の筧助太夫隊100人余が佐渡奉行所が保管する金塊を同盟軍の軍用金にしようと寺泊から佐渡へ渡った。筧らは、会津藩の名代を名乗り、奉行所に金塊の引き渡しと軍用金の協力を求め、各地で乱暴を働いて、佐渡は不穏な情勢となった。筧は新政府軍に抗戦するとして小木の河原田にあった屯所(現佐渡高校)※地図を占領した。
これに対して、閏4月11日、中山は地役人や町人ら150名を集めて佐幕を標榜する迅雷隊を結成し、佐渡は奉行所役人や島民自ら守ることを水戸藩諸生党の筧らに説いて佐渡を去るよう説得した。諸生党筧助太夫隊は佐渡の金銀の引き渡しを求めたが、中山は、金塊は江戸城に移し、奉行所にはない。信じないならば家探ししても良いといった。筧たちは、何度も探し回ったが、見つからず、時間だけが過ぎた。そのうち、寺泊の本隊から新政府軍が迫って来たので、至急もどるよう連絡が入り、筧は、金塊をあきらめ、5月10日に佐渡を去っている。

灰爪の戦いと敗退

5月14日、新政府軍と諸生党の間で灰爪の戦いが発生した(灰爪の戦い)。
灰爪は柏崎方面への交通を押さえる重要地点であり、ここを制することは出雲崎・柏崎方面の防衛に直結していた。諸生党は約500人の兵力を投入して迎撃したが、新政府軍の攻撃を受けて敗北した。
この戦闘で諸生党は大きな損害を受け、65人もの死傷者を出した。これは越後戦線における諸生党最大級の損害であった。
敗報が出雲崎に伝わると、陣屋周辺は混乱した。
出雲崎代官所の役人たちは、水戸勢の敗北を知ると逃亡を始めた。上役人は船を出して早々に退去し、逃げ遅れた下役人は、幕府以来の記録や文書を敵に渡さないため焼却して退いた。

出雲崎からの撤退

灰爪で敗れた諸生党は、出雲崎陣屋を維持することが困難となった。
撤退に際し、諸生党は陣屋を焼却することも可能であった。しかし、彼らは出雲崎滞在中に町民から受けた協力や世話を忘れず、火を放てば町へ延焼する危険があり、住民に大きな迷惑をかけるとして焼き討ちを避けた。
陣屋前で形式的に焚火をしただけで、実際には建物や施設を焼くことなく撤退した。
その後、諸生党は寺泊方面へ移動し、出雲崎陣屋は再び旧幕府側の別勢力による防衛対象となった。会津藩は海岸線の防衛が手薄になったことを受け、一隊を派遣して幕府遊撃隊の残党と合流させ、寺泊方面の守備と出雲崎奪還を図った。
しかし、出雲崎陣屋をめぐる戦況はすでに旧幕府側にとって厳しく、以後の北越戦争の流れの中で、新政府軍の優勢は決定的となっていった。

出雲崎以後の戦闘

5月22、23日、加茂で奥羽越列藩同盟軍の軍議が開かれ、諸生党は寺泊方面を担当することになった。
5月24日には寺泊沖で薩摩艦「乾行丸」、長州艦「丁卯丸」と旧幕府艦「順動丸」の海戦が発生した。順動丸は大破沈没し、その後の艦砲射撃によって寺泊は大きな被害を受けた。諸生党は弥彦方面へ撤退した。
5月27、28日には与板城攻撃に参加した。水戸勢は陣ヶ峰方面から攻撃したが、新政府軍の抵抗により攻略には至らなかった。
7月29日、長岡城が再び落城すると、同盟軍は崩壊へ向かった。諸生党は会津藩兵と行動を共にして撤退し、8月2日の五十嵐川の戦い、8月4日の村松城攻防戦を経て津川口から会津へ戻った。
越後での戦闘に参加した諸生党約500人のうち、約160人が命を落とした。しかし戦死者の多くは墓もなく、姓名すら伝わらない者が多い。
その中で戸崎留五郎は、6月6日の戦闘で負傷しながら弥彦まで逃れ、旅館「のとや」で8日に死亡した。遺体は旅館主人の厚意で弥彦神社裏手の宝光院墓地に葬られ、「戸崎留五郎之墓 水藩」の碑が現在も残っている。


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