古希感慨(3)

令和03年01月26日(火)

 つねちゃんが突然転校したことも知らないで、子どもたちは連日よく遊びました。遊び相手は同級生ではなく、近所を単位に異年齢の群れを作って遊んでいたように思います。少子化の進んだ現在と違って、町内には群れを作るほどの人数の子どもたちがいたのですね。春祭りにはどこの町内も大人みこしのほかに子どもみこしをこしらえ、揃いの青い法被を着てワッショイ!ワッショイ!と、終日、街を練り歩きました。男たちは大人みこしを担いで出払っていましたから、子どもみこしには母親たちと、子供会の役員たちが付き添いました。観光地であるだけに郡上八幡にはサラリーマンの家よりも小売店や飲食店が軒を連ね、ワッショイ!ワッショイ!とやって来たみこしの付添人は、めぼしい場所に差し掛かると、肩からぶら下げた拡声器のマイクを口に当て、『川原町のみこしです』『川原町のみこしがやって参りました』と声を張り上げます。すると、『あの店はケチやぞ』と言われたくない一心で、店主たちは争って通りへ飛び出して、千円札が何枚か入った祝儀袋を役員に差し出します。役員は領収書代わりに、縁起ものの五円硬貨の入った大入り袋を返します。『○○商店さん、有難うございます!』。『スナック○×さん、過分なるご祝儀、有難うございます!』。子どもたちも心得ていて、祝儀をもらう度に店の前でみこしを勢いよく回転させ、『わ~い!』『わ~い!』と頭上へ高く差し上げて、店の繁栄を祈念しては次の町内へと移って行くのでした。こうして町を二日間練り歩くと、結構な金額の祝儀が集まりますが、それが町内でどう使われたのかを子どもたちは知りません。ただ、寺や神社で休憩を取るときに、地べたに直接座るという非日常的な状況で、輪になって食べた出前の中華そばの味は格別でした。祭りが終わった商店の壁には、町内名の入った紅白の大入り袋が所狭しと貼り出されて、町への貢献度を誇示するのでした。


 当時の子どもたちの遊び場は道路でした。かくれんぼ、相撲、シュッケン(めんこ)、カッチン玉(ビー玉)、駆逐艦、ゴム跳び…。天下の往来は通路である前に、子どもたちの遊び場でした。砂利道は、たまに車が通ると、前が見えなくなるほど土埃が舞いましたが、五寸釘を地面に刺しては陣地を競う陣取りゲームができました。雨が降ると、あちこちのくぼみに水たまりができました。その中空をせわしなく行ったり来たりしながら盛んに卵を産みつけるトンボの姿を見る度に、こんな小さな水たまりが分かるのに、そこが水の干上がる道路であることを認識できないトンボの脳力の限界に、同情めいた苛立ちを感じたことを覚えています。冬になると土の水分が凍って道路には霜柱が立ちました。踏むとザクッと小気味の良い音がして、小さな破壊欲求が満たされました。白く凍った水たまりを見つけるや、右へ左へ跳んで、わざわざかかとで割りながら登校したものです。

 道路がアスファルトで舗装され始めたのは、国民体育祭…いわゆる国体が岐阜県で開催された1965昭和40年頃でした。郡上八幡は相撲会場に選ばれたために、国技を見学する昭和天皇の行幸に合わせて、国道を手始めに次々と道路が舗装されたのでした。ブラスバンドでトランペットを担当していた中学三年生の私は、振り向けば昭和天皇という位置でファンファーレを演奏しましたが、立ち上がって帽子を持ち上げた、口髭に丸眼鏡の小柄な男性が、戦前はその名を口にするだに畏れ多い現人神であり、毎年八月十五日になると耳にする『汝、忠良なる臣民に次ぐ…耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』というあの玉音放送の声の主であるという実感はなかったように思います。国体の内容も成績も全く覚えてはいませんが、町を花で飾ろうという運動が町民あげて展開され、道端も学校の花壇も、真っ赤なサルビアの花で埋め尽くされた光景は印象に残っています。

『思い出の サルビアの花 とわに咲き』

 終わりそうになると、さて…と話が続く長い挨拶で学生を困らせていた校長先生が、式典の度に必ず話に織り込んだ自慢の句は、早く終われ…早く終われ…という願いと共に多感な中学生の耳に繰り返し聞かされただけに、国体と聞くと、まるで条件反射のように頭に浮かびます。15歳のときに聞いて、70歳になっても忘れられない句は、名句というべきかも知れません。

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