古希感慨(4)

令和03年01月31日(日)

 昭和40年開催ということは、岐阜国体は東京オリンピックの翌年の出来事だったのですね。家族の中心にテレビがいて、団欒を創り出す力をまだ強烈に持っている時代でした。オリンピックという、国をあげての一大イベントが、敗戦で打ちのめされた国民の心を19年ぶりに一つにした興奮がありました。鬼の大松監督に鍛えられた回転レシーブを駆使し、宿敵ソ連を破って金メダルに輝いた女子バレーボールチームは東洋の魔女と呼ばれていました。負傷した肩に麻酔を打って果敢に鉄棒の演技に挑む小野喬選手をキャプテンに、吊り輪を握った両腕を水平に開き、つま先までピンと張りつめて微動だにしない見事な十字懸垂を披露した遠藤幸雄選手、自ら編み出した山下跳びに、さらにひねりを加えた新・山下跳びで、外国勢の追従を許さなかった跳馬の山下治広選手。わずかなミスも減点の対象になる緊張感の中で、世界の強豪と演技を競う体操選手の孤独な姿は、高潔な修行僧のような印象で心に刻まれています。圧巻はマラソンでした。エチオピア出身のアベベ選手に次いで、第二位で国立競技場に姿を見せた円谷選手は、大観衆の見下ろす中で、イギリスのヒートリー選手に抜かれて無念の銅メダリストに終わりました。それから4年後のメキシコオリンピックの年に、『父上様、母上様、三日のとろろ美味しゅうございました…幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません…幸吉は父母上様の傍で暮らしとうございました』という悲しい遺書を残して円谷選手は自ら命を絶ちました。世界で三本の指に入る強靭なマラソンランナーであっても、感情の始末に失敗すると死んでしまう…。自分の心の淵にも同じ魔物が棲んでいるような不安は、古希を迎えた今も続いています。

 円谷選手の悲劇に区切りをつけるかのように、翌年の 1970昭和45年には、「こんにちは」「こんにちは」という三波春夫の歌が大流行し、日本中が大阪万博に湧きました。私は万博会場からすぐ近くの関西大学の二回生で、韓国パビリオンでガードマンのアルバイトをしました。見物に来た母を連れて、たくさんの国の展示を見て回ったはずですが、記憶の網の目は案外粗く、気が遠くなるほどの行列と太陽の塔と月の石しか覚えていません。それにしても昭和20年の敗戦で何もかも失った日本は、わずか25年の間に、当時世界一の高さを誇る東京タワーを作り(昭和33年)、首都高速主要4路線を開通させ(昭和39年)、東海道新幹線を走らせ(昭和39年)、オリンピックを開催し(昭和39年)、高さ147メートルの霞が関ビルを建て(昭和43年)万博を開催したのですね。そして3年後の1973昭和48年のオイルショックを機に、世界の奇跡といわれた高度経済成長を終えたのでした。


 活気にあふれた時代でした。テレビが欲しい、炊飯器が欲しい、冷蔵庫が欲しい、洗濯機が欲しい、掃除機が欲しい、ステレオが欲しい、クーラーが欲しい、車が欲しい、家が欲しい…。際限もない人々の欲望が、社会の活気の源泉でした。貯金は定期で10年預けておけば金額が倍になる時代でした。わが家だけでなく、町内のあちこちで、昼間働いた人が、夜は内職をしていました。T字カミソリの刃付け作業は、指先に細かいささくれができました。積み木の面取り作業は、仕上がった積み木を箱に投げ込むとき、カラカラとやかましい音がしました。自動車部品のバリ取り作業は、何とも言えないゴムの匂いがしました。造花を束ねる作業は、積み木ほどではないにしろ、造花同士がこすれてカサカサとうるさいものでした…。テレビを買うためにせっせとおカネを稼ぎ、テレビが来ると、今度は冷蔵庫を買うためにさらに内職に精を出し、稼いだカネはできるだけ節約して郵便局に預け、預けたカネは政府に集められて、国家予算とは別枠の有利な融資となって経済を後押ししました。この10年で貯金も倍になりましたが、大卒の国家公務員の給与も倍になりました。郵便貯金は高度経済成長を支えたからくりの一つでした。

 内職の話です。

 人間は、テーブルを挟んで向き合って、さあ話せと言われても、なかなか話は弾みません。話が途切れると気まずくなって、時間を持て余してしまいます。ところが共通の作業に取り組みながらだと、話はとりとめもなく展開するものですね。麻雀でも、雪かきでも、祭りの準備でも、キャンプのバーベキューでも、作業は何でもいいのです。メンバーには、話が途切れても、やるべき作業がありますから、時間を持て余す気まずさはありません。

「もうこんな時間や。こんだけやって1000円にもならんなんて、内職は割に合わんなあ」

「もっと工賃のいい内職があるんでないか?」

「けんど変わるのは悪いしなあ」

「ま、安うても内職やっとる間はものを食わんで、節約やと思えばええか」

「今度のは、まんだ始めて半年やでな」

「そう言えば小腹が空いたなあ。何かないか?」

「今、ものを食わんと言ったばっかやないか」

 父親のいないわが家の夜は、内職をする母と祖母の、とめどない会話を聞きながら更けて行きました。一家のあるじの祖父は、明治の男らしく一度も内職を手伝いませんでした。祖母を看取り、祖父を送り、自分自身は認知症を病んで、母は今、グループホームにいます。大変良くしてもらっていますが、認知症とはいえ、9人の入居者が、することもなく過ごす一日は、どんなに退屈なことでしょう。能力に応じて取り組める簡単な作業があって、出来高に応じてわずかな工賃がもらえれば、施設にはもっと活気が出て、利用者同士の話も弾むのではないかと思います。もちろん工賃はこっそり家族が負担しても構いません。

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