古希感慨(5)

令和03年02月05日(金)

 炊飯器のない時代は『かまど』でご飯を炊いていました。かまどの焚口の前には切り株が二つ並んでいて、火吹き竹を片手に火の守りをする祖母の隣が私が座る切り株でした。

 初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな。

 かまどの上には大きなお釜が湯気を立てていました。圧力を高めてふっくらとご飯を炊き上げる知恵なのでしょう、お釜には、分厚くて重い木製の蓋が乗っていました。焚口から外へ炎がはみ出すくらい火の勢いが盛んになると、あの重い蓋がカタカタと音を立てて持ち上がり、白い蒸気がご飯の匂いを吹き上げました。炊き上がったご飯はヒノキの匂いのする『おひつ』に移され、ワラ縄を円筒形に編んだ『イズミ』という蓋付きの容器の中で保温されました。お釜にこびりついたお焦げご飯は、丹念にこそげ落として、祖母がお茶漬けにして食べていました。お焦げご飯など一家のあるじの祖父が食べるはずもなく、一人娘の母に食べさせるつもりはなく、あと取り息子の私に食べさせたくはない。かといって、お焦げであっても、ご飯を粗末にすることはできない…となると、必然的に食べるのは祖母ということだったのでしょう。みんなが炊き立ての白いご飯を食べているときに、文句も言わずにお焦げのお茶漬けを食べる祖母のことを、惨めだなあと同情するときと、偉いなあと尊敬するときがありましたが、背中を丸めてお茶漬けを啜る祖母の姿と重なって、ご飯は一粒たりとも無駄にしてはならないという戒めは、今も私を拘束して肥満の原因になっています。

 ご飯が炊きあがるまでは、かまどの前で祖母と並んで座り、火を眺めながら色々な話をしました。いえ、話を聞いてもらったと言った方が正しいでしょう。学校から帰った私が夢中で話す一日の出来事を、祖母は「ほう」「よう我慢したな」「そら嬉しかったやろ」と相槌を打って聞いてくれました。人間は食べたものを消化し、老廃物を排泄して身体の健康を保ちます。老廃物が排泄されないと体調を壊しますが、同様に、脳は、取り入れた情報に様々な意味を与え、その結果生じた感情を言葉で排泄して精神の健康を保ちます。「暑いね」「寒いね」と、非生産的なことを言わずにはいられないのは、気温を感じて脳に生じた、暑い、寒いという感情を排泄しないでいると精神が滞るのです。言葉は聞いてくれる人がいて表現が可能です。私にとって、祖母が薪をくべる『かまど』の前が、精神の健康を保つとっておきの場所でしたが、その場所は、せっせと貯えて購入した炊飯器に奪われました。


 かまどを失っても食卓がありました。飯台と呼ばれる丸い座卓の四本の脚は折り畳むことができ、食事が済むと部屋の隅に立てかけてありました。中央にはコンロを置く穴が開いていて、鍋を囲んだり干物を焼いたりできました。祖父と祖母と母と私は、丸い飯台を囲んで貧しい食事を取りながら、実によくしゃべりました。肉はあっちの店の方が安いとか、誰々さんちの娘が再婚するらしいとか、違う色の制服を着た大阪弁の転校生が来たとか、町で背の高い外人を見たとか…。わが家は身内だけの小さな印刷屋を営んでいましたが、仕事場で起きる出来事に関する話は母と祖父の間で熱を帯びました。

「刷り直し?原稿を見せれば、相手の間違いやってことは分かるやろ?この忙しいのに、どうしてこっちが謝って刷り直さんならんのや」

「こんなことで怒らせたら、お前、役場の仕事はもう来んようになるぞ。役人は原稿の間違いで刷り損なったなんて、上役には言えんで、自腹切らんならん。自腹切ったら面白うないで、もううちには注文してくれん。役場はお得意さんやぞ。ここは損して得取れや」

「哲雄、やっぱり自営業はだちかんぞ。お客さんみんなにぺこぺこして、黒いもんも白いと言わんならん。お前は勤め人になれ。勤め人は上役にだけ頭下げとけばええ」

 一人っ子の私に、祖父は印刷業を継ぐことを期待していたに違いないのですが、母はサラリーマンになれと勧めました。私は食卓の雑談の中で、自営業の苦労やサラリーマンの悲哀を学んで進路に迷いましたが、そんな迷いなど無意味にするような技術革新が水面下で急速に進んでいました。ワープロの登場は、客から持ち込まれた原稿通りに丹念に活字を拾って製版する母の仕事を奪いました。会社や役所に設置されたコピー機や輪転機は、刷り物を印刷屋に外注する必要性を奪いました。私が高校生になる頃には、印刷屋は母の代までという暗黙の合意ができていました。創業者の祖父が死ぬと、母と母の従兄の二人で家業を維持しましたが、需要の減少と、寄る年波には抗しきれず、母が七十歳のときに廃業しました。ちょうど今の私の年齢です。機関車のような真黒な鉄の印刷機が二台と、何百枚という紙を一度に裁断する断裁機が運び出されたとき、確実にひとつの時代が終わったという実感がありました。母子家庭でも、「ただいま!」と帰れば「お帰り!」と迎えてくれる母がいて、淋しい思いをしないで済んだのは、祖父母の存在と自営業を営んでいたおかげです。

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