古希感慨(6)

令和03年02月09日(火)

 テレビはある時期までは確実に団欒を創り出す力を持っていました。午後六時から九時までの間に、アメリカのテレビ映画が週一ペースで放送されて、家族で釘付けになりました。名犬ラッシー、名犬リンチンチン、アニーよ銃を取れ、ララミー牧場、スーパーマン、ベンケーシー、ライフルマン、ルーシーショー、奥様は魔女…。テレビそのものが珍しいことに加えて、テレビが買えたという誇らしさと、ブラウン管の中に展開する豊かなアメリカの生活や家族愛に対する珍しさと憧れが、世代を超えて観る者の心をとらえたのです。戦後は自由な社会になったとはいっても、食卓の座る場所が家族の中で固定されていたり、風呂の順番が決まっていたり、町内や祭りの役員は男でなくてはならなかったり、男子は坊主頭の校則があったりと、まだまだ残る封建的な慣習に息苦しさを感じていた国民は、親と子や、上司と部下や、先生と生徒が、まるで友だちの様に対等に口を利くアメリカの暮らしに、ああいうの、いいな…という、具体的で、とても遥かな目標を見ていたような気がします。国産のドラマが制作されるようになると、ヒーローものが子どもたちの心をとりこにしました。月光仮面、七色仮面、少年ジェット、白馬童子、まぼろし探偵、ジャガーの眼、アラーの使者、怪傑ハリマオ、琴姫七変化、隠密剣士…。時代を共有しない人には意味のないタイトルですが、同時代を生きた人には、主題歌をバックに主演の顔が浮かぶほど懐かしいタイトルに違いありません。てなもんや三度笠やとんま天狗などの喜劇や鉄腕アトムやスーパージェッターなどのアニメも登場しました。この頃になるとテレビは、団欒を創り出す力を失い、勉強せよという親と、もっと観たいという子どもとの対立の火種になって行くのでした。


 冷蔵庫のない時代は、保存ができないので、その日の食材はその日に買いに行きました。近所には肉屋がありました。魚屋がありました。八百屋もありました。床屋同様、不文律の縄張りのようなものがあって、そんなに遠方まで行かなくても必要なものが手に入る程度に分散して店を構えていました。当時、自家用車を持っている家などありませんでしたから、買い物はせいぜい自転車でした。レジ袋などというものはなく、店は商品を新聞紙でくるんで手渡してくれました。どこの家にも手提げの買い物カゴがあって、片手で提げるカゴ一杯、あるいは自転車の前のカゴ一杯程度の量の食材を、商店をはしごして調達していたのです。買い物の時間は重なります。店で商品を選ぶ何人もの主婦たちは、お互いにどこの誰だか分かっていましたから、お店はちょっとしたサロンでした。

「あれえ、死産やったんかな…ちっとも知らなんだけど、気の毒やんなあ」

「あんなに楽しみにして、赤ちゃんの着るものを編んでおいでたのに」

 という悲報はそれぞれが家に持ち帰り、

「死んで生まれて来る子もおるんや、テレビばっか観て勉強できんでも、うちは元気に育っとるだけ幸せや」

「まったくや、よう食べて、病気もせんで、そんだけでも親孝行やと思わなな」

 食卓で交わされる大人たちの会話を聞いて、少しはテレビの時間を減らさねば…と思ったりしたものでした。

 そろばん片手に勘定をする間際に、前掛け姿の八百屋のあるじが、リンゴをひとつこっそりカゴに入れて、

「てっちゃんには、うちのノブが仲良うしてもらって…これ、てっちゃんに食べてもらっとくれ」

「あれ、こんなことしてもらって、ええんかな?」

「ええって、ええって、またお願いします」

「おおきに、悪いんなあ、ノブちゃんにはまたいつでも遊びに来てもらっとくれ」

 現在のスーパーのレジ係と違って、個人経営の八百屋の店主には、他に客のいないタイミングを見計らって、果物を一つおまけしたり、請求額の端数を切り捨てる権限がありました。専業主婦がいて成立していたのかも知れませんが、買い物は買い物以上の地域の交流を生み出していたように思います。

 冷凍冷蔵庫が普及して、肉や魚も家庭ごとに保存できるようになり、各家庭が自家用車を持って、一定の量の食材の運搬が可能になると、肉も魚も野菜も一か所で大量に販売する大型店舗が、広大な駐車場付きで郊外に展開し、店員は全て従業員になってしまいました。広域からやって来る買い物客たちの中に、顔見知りを見つける方が困難で、店舗は地域の主婦が交流するサロンの機能を失いました。価格競争で敗れた小売店は廃業し、大手スーパーに雇われたノブちゃんの母親は、野菜売り場を担当していても、知り合いにリンゴひとつおまけする権限も持ってはいないのです。

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