古希感慨(7)

令和03年02月13日(土)

 洗濯は手作業でした。『盥』という文字をタライと読める人は少なくなりましたが、どこの家にもいわば底の浅い木製の桶であるタライがありました。それとセットで、これは見たことのない人に分かるように説明するのが大変難しいのですが、まな板程度の大きさの木の板の両面に、等間隔で無数の凹凸が彫られた『洗濯板』というものがありました。水を満たしたタライの中へ洗濯板を斜めに立てかけ、濡らした洗濯物を洗濯板に広げて、10センチ四方もある白い固形石鹸をこすりつけます。それを洗濯板の凹凸にゴシゴシとこすりつけて丹念に洗う祖母の仕事は、はた目にも重労働でした。だから現在の様に、一日着たものは、その日のうちに洗うということはありません。二日置き、三日置き、セーターのたぐいは一週間程度は連続して着ていたように思います。洗った洗濯物は、石鹸の泡がなくなるまで何度も水を替えてすすぎました。すすぎ終わると、両手でねじるようにギュっと絞り、バンバンッと中空で水を切って物干し竿に干します。所狭しと干された洗濯物は、祖母の労働を証明するように晴れ晴れと軒下で日を浴びていました。やがて木製のタライはブリキのタライに変わり、間もなく白い電気洗濯機がやって来ました。洗濯槽の水を攪拌する回転板は、サイズを変えたり角度を変えたりしながら、槽内での衣類のよじれを克服しました。洗い終わった洗濯物は、手動で回す2つのゴムのローラーの間に一枚ずつ通して脱水しました。水を絞って出て来る洗濯物は、ノシイカのように2次元の物体になり果てていました。温暖化とは無縁だった郡上八幡の冬は寒く、うっかり取り込み忘れたタオルは、2次元の物体のまま軒下で凍っていました。やがてローラーは遠心力を利用した脱水槽になって洗濯機は二槽式になり、次に洗濯槽のまま脱水ができるようになり、とうとう乾燥機能まで装備して一定の進化を終えました。前に郵便貯金が資金面で経済成長を支えたと書きましたが、技術の進歩を忘れてはいけません。もっと便利に、もっと快適にという人間のアイデアを商品にする開発や設備投資に国民の貯金が投入されて、会社を、社会を、経済を成長させたのです。


 掃除機が登場するまでは、どこの家庭にも箒がありました。部屋を掃く座敷箒は、竹の柄にワラのようなものが糸で末広がりに束ねてあって、よく「畳の目に沿って掃け」と注意されたものでした。庭箒は土間や屋敷周りを掃くためのもので、茶色のシュロでできており、座敷箒より小ぶりで硬質なものでした。竹箒は、長い柄の先に、文字通りたくさんの竹の枝を針金で束ねて作ってあって、落ち葉を掃くのが主たる目的でした。郡上八幡の実家は一部屋ずつが縦に連なる細長い構造で、入り口から家を貫いてコンクリ―トを打った一本の通路が走っていました。子どもの頃の私は庭帚が通路を掃くサッサッというリズミカルな音で目が覚めました。祖母が誰よりも早く起きて掃き掃除をしているのでした。家の一番奥から掃き始めた祖母は、集めたゴミを入り口辺りで塵取りに取ってゴミ箱に捨てると、箒と塵取りを置き、道路に出て空を仰ぎます。東の空の、まだ若いお日様に両手を合わせて目を閉じた祖母は、しばらくじっとしているのが日課でした。

「何を祈っとったんや?」

 一度だけ聞いたことがありました。

「なあに、手を合わせとっただけや」

 拍子抜けするような祖母の返事でした。

 座敷の掃除をするときは、箒とは別に『はたき』と呼ばれる道具がありました。2センチにも満たない太さで、50センチほどの長さの黒竹の先に、布切れを細く切って束ねたものを結わえ付けたもので、障子の桟や家具の上に溜まった埃はをまずこれでパタパタとはたき落としてから畳の掃除に取り掛かりました。畳には濡れた番茶の茶殻を撒き、茶殻ごと座敷帚で埃をからめとりました。埃を舞い上がらせない知恵でした。

 町に小澤という小さな本屋がありました。中学に上がる前だったと思いますが、読みたい本を別の子が立ち読みしていて、なかなか動く気配がなかったため、近くにあった『アサヒグラフ』という写真集を何気なく開いて、慌てて本を閉じました。脈拍が早くなりました。ページには若い全裸の女性が、両手を広げ、髪をなびかせて、海をバックに砂浜に立っていました。胸のふくらみ、腰のくびれ、すらりと伸びた足…。週刊プレイボーイも平凡パンチもまだ存在しない時代です。芸術性の高いモノクロ写真であっても、男子にとってヌード写真は官能的なものでした。恐る恐るもう一度こっそり覗き見た写真は、網膜ではなく思春期の脳にくっきりと焼き付きました。その瞬間に私を襲った罪悪感に似た感情は、翌日の放課後までに、抗しがたい誘惑に変わりました。家に帰る前に小澤書店に寄ってアサヒグラフを開きました。次の日も覚えているページを開いて写真を見ました。何日か続いた頃、いつものようにさりげなく目的の棚に近づいてアサヒグラフを開いたとき、はたきを持った書店のあるじが、コホンと一つ咳払いをして、書籍の誇りをはたきながら近づいて来ました。それ以来、私がアサヒグラフを開くと始まる店主の掃除に、埃を払うのとは別の意図を感じ取った私の足は、小澤書店から遠のきました。どうやら書店の『はたき』には、掃除以外の用途があったのです。

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