国家の生い立ち

平成23年12月31日(土)

 花が咲くように、鳥が鳴くように、人間は常に自分を表現して止まないものですから、神経質な人は気難しく眉間に皺を寄せ、楽天的な人はおおらかに笑っています。攻撃的な人は険しく辺りを睥睨し、臆病な人の視線はおどおどと落ち着きません。服装一つ取ってみても、そこには着る者の人となりが表れているのです。しかし、なぜ彼が今そのようであるのかを知るためには彼の生い立ちを理解しなければなりません。彼の気質は家族を初めとする周囲の人間との関係や経済状況、成功体験や失敗経験を通じて形成されたものであるからです。

 国家も同様ではないかと思い至ったとき、自分の所属する国家の生い立ちをそのような観点で理解したいという衝動に駆られました。もちろん二千年を超える国家の歴史を仔細に知ろうとすれば手に余ることは目に見えています。そこで高校生の頃に使った古い歴史年表を書棚から探し出しました。世界の出来事と日本の出来事が平行して示してある大変シンプルな年表です。以下は年表をわずかな資料で補いながら、未だ文明の発生する以前から太平洋戦争の終結までを、大づかみにしたこの国の生い立ちです。

 識者の批判には耐えられない不正確さを自覚した上でなお、まとめ終えてみると新鮮な発見がありました。この国は極東の島国という特殊な条件であるが故に、時に過剰なまでに外国の脅威に怯え、時に驚くべき無神経さをあらわにしながら、歴史の節目ごとに経験する周囲の国々との関係を通じて、国家としての気質を形成して来たという事実です。それが好ましい気質であるかどうかは別にして、一人の人間の気質が形成される場合と同様の必然のようなものを感じました。たかが高校の年表の数ページを記述するのに大河を渡るような時間と労力を必要としたのは、ひとえに私の無知の所産であるわけですが、高校まで受けて来た教育が、歴史の本質に触れないで、採点の容易さばかりに配慮した瑣末主義に偏していた結果でもあるように思います。大切なのは鎌倉幕府がいつ成立したのではなく、なぜできたのかということです。敗戦のときの総理大臣が誰であったかということではなく、どうして日本が列強相手に無謀な戦争に突き進んだのかということです。この国の気質をどう見るかについては、長い長い生い立ちの記述を終えてから触れてみたいと思っています。


縄文時代

 人類最初の文明が、「メソポタミア」、「エジプト」、「インダス」、「黄河」と、いずれも大きな河の流域を舞台に、農耕の余剰生産力を背景にして展開したことは小学生でも知っています。その日の食べ物を得るのに精一杯の段階では文明は起こりませんからね。

 やがてたくさんの奴隷労働に支えられて豊かな社会を築き上げた「ギリシャ」において、「ポリス」という小国家単位の民主政治が行われ、「ソクラテス」や「アリストテレス」が哲学を思索し、「アルキメデス」が円周率や浮力の計算に没頭していた頃、日本民族はたて穴住居に住み、狩猟採集生活に明け暮れていました。

 今もその頃の哲学を大学生が学び、その頃の円周率が小学生を悩ませているのだと思うと不思議な気持ちになりますね。

 生きることに深い懐疑を抱いた「ゴーダマシッタルダ」が「インド」で「仏教」を始め、中国では「孔子」が仁や礼を中心にした「儒教」を説いた頃も、日本ではまだ稲作すら始まってはいなかったのですから、文明という国際レースのランナーとしては、日本民族は随分と遅いスタートを切ったものです。


弥生時代

 文明は国家を生み、国家は領土と権力を巡って攻防を繰り返します。征服したりされたりしながら、異質な文明と交わることによって文明は飛躍し、権力は強大になって行きます。もっぱら武器に使われていた金属は使用目的を広げ、工具や農具にも「鉄」を用いることによって大規模な土木工事が可能になりました。

 中国では「遊牧民族」の進入を防ぐために「万里の長城」の建設を始めた「秦」が内乱で滅んで「漢」が起こり、地中海一円では巨大な「ローマ帝国」が水道網、道路網を整えて一大文明エリアを完成させた頃、日本にもようやく鉄が伝わり、「稲作」が始まって地方国家が誕生しました。「倭奴国王」が「漢」の皇帝から金印を受けたり、「邪馬台国」の国王として「卑弥呼」の名が記録に現れるのはこの時期のことです。


大和古墳時代

 ユダヤ教の「戒律」を「隣人愛」に改めることで普遍性を得た「キリスト教」は、「一神教」であるという意味で権力の正当化にとって都合がよく、ローマはこれを国教と認めることによって民意の統一に成功しました。一方、秦の「始皇帝」をてこずらせた遊牧民族は、大集団を形成してじわじわと農耕国家の領土に侵入し、現在のドイツ地方に住んでいた「ゲルマン民族」を、ほとんど二世紀をかけて南へ南へと追いやりました。その勢いが「ローマ帝国を東西に二分」する頃、日本では「倭」と呼ばれる「大和朝廷」が朝鮮半島に出兵し、「百済」「新羅」を破り、漢字や儒教を初めとする文明を取り入れ、有力者のために方々に古墳が作られる程度には権力が散在する「大和古墳時代」を形成していたのです。ちなみにゲルマン民族の移動は玉突きのように他の民族を移動させ、イギリス地方には「アングロ・サクソン族」が、フランス地方には「ブルグンド族」が住み着きました。

 余談ですが、東西に分かれたローマ帝国のうち、「西ローマ帝国」は早々と滅び、カトリックの権威である「教皇」の座を「東フランク王国」が独占しました。これにより東フランク王国は「神聖ローマ帝国」と呼ばれて、「王権神授説」などを武器に、長期に亘りヨーロッパ諸国の攻防に関わり続けます。一方、「東ローマ帝国」は皇帝が教皇を兼ねる形で「ビザンツ帝国」として生き延びて、やがてイスラム勢力の侵略に苦しみ、ローマ教皇に支援を求めたことから、ヨーロッパ諸国は「十字軍」を編成してイスラム世界に遠征を繰り返し、東西文明の交流をもたらすことになりますが、これは平安時代も後期の話です。

 話を大和古墳時代に戻しましょう。


飛鳥時代

 政治的に混乱していた中国を「随」が統一した頃、「倭国」では「聖徳太子」が「摂政」になって「随」を手本にした国つくりを行いました。当時の文明は仏教でしたから、太子は、「四天王寺」、「飛鳥寺」、「法隆寺」を相次いで建て、「冠位十二階」を設け、「暦日」を導入し、「十七条の憲法」を制定してから、「小野妹子」を「遣随使」として派遣しました。随の皇帝から、お前の国はどのような国かと尋ねられて、暦も憲法も寺院もある立派な文明国ですと答えたかったのでしょうね。このとき妹子が携えて行った太子の手紙の「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」という文面には、建設の途に就いたばかりの弱小国家が海一つ隔てた大国から侮られまいとする太子の気概が伺われます。

 この頃、「アラビア」では「ムハンマド」が神の預言を受けて「イスラム教」を唱え、「仏教」、「儒教」、「キリスト教」、「イスラム教」の順に「世界四大宗教」が出揃っています。ビザンツ帝国を悩まして十字軍派遣の原因になったのは、このイスラム教を背景にしてまとまった中東の勢力なのですね。

 朝鮮半島では「百済」と「新羅」と「高句麗」の三国が勢力を競っていましたが、「随」は三度「高句麗」に兵を出したりして民衆の信を失い、短期間で「唐」に滅ぼされました。「倭国」は早速、「遣唐使」を送る一方、国内で専横を極める「蘇我氏」を「中大兄王子」と「中臣鎌足」が討って、「公地公民制」を柱とする「大化の改新」を断行し、国内勢力の統一を計りました。公地公民・・・つまり統一国家としての「倭国」は、土地の私有を認めない、ある種の社会主義体制を採用してスタートしたのですね。後に大兄王子は「天智天皇」になり、鎌足は「藤原氏」として政治の中心を担います。

 まもなく「新羅」は「唐」と結んで「百済」「高句麗」を討ち、朝鮮半島は「新羅」が統一を果たしますが、天智天皇は親交の厚かった「百済」からの救援依頼に応えて船団を送り、「白村江」で大敗しました。「倭国」に逃げ込んだ「百済」の難民は、それから先、帰化人として日本の文明に大きな影響を与えることになりました。

 天智天皇は「新羅」「唐」の連合軍に攻め入られることを恐れ、「近江京(大津)」に都を移して体制強化を計りましたが、天智天皇が亡くなると、弟と実子が後継を争って「任申の乱」が起こりました。その後、都を再び「藤原京(京都)」に移したりしながらも、「倭国」政府は国内の政治体制を整えて「唐」の制度に習った「大宝律令」を制定しました。流通の実体はともかく、自前の通貨である「和同開珎」も鋳造して都を「平城京(奈良)」に移しました。大宝律令の中で初めて「日本」という国名を使用しましたから、ここからは「日本」と表記することにします。

 聖徳太子が摂政に就いた辺りから平城京遷都までを「飛鳥時代」と呼びます。飛鳥時代は、ぴかぴかの新興国家である「倭国」が、お隣の「随」「唐」という大国から統治機構を学んで懸命に国家の体裁を整えようとした時代と言えそうです。


奈良時代

 ここから「奈良時代」に入ります。

 「古事記」に続いて「日本書紀」が編纂され、「神話」という形で「天皇の正当性」を公にすることから始まった奈良時代は、「国分寺」や「国文尼寺」、「東大寺」、「正倉院」、「唐招提寺」に象徴されるように、飛鳥時代を踏襲した仏教政治でした。この頃の仏教は、個人救済ではなく「国家鎮護」を目的としていましたから、寺院は限りなく政治色を帯びた機関だったのですね。そのため僧の権力が増大し、「道鏡」のように皇位に就こうとする者まで出現するに及んで、「桓武天皇」は都を「平城京(奈良)」から「平安京(京都)」に移し、都における大規模寺院の建設を禁止して、政治に対する仏教の影響を排除しました。

 わずか百年足らずの奈良時代は、飛鳥時代に聖徳太子が取り入れた仏教勢力が最大になり、これを排除した時代と言えそうです。「唐」の影響を強く受けた仏画、仏像、寺院建築などは「天平文化」と呼ばれています。


平安時代

 以下、「平安時代」に入ります。

 遣唐船で「唐」に渡って仏教を学んだ「最澄」が「天台宗」を、「空海」が「真言宗」を開きましたが、都における大寺院の建設は禁止されていましたから、「天台本山」である「延暦寺」は滋賀県大津の「比叡山」、「真言本山」の「金剛峰寺」は和歌山県「高野山」と、いずれも京の都からは遠方にありますね。

 その頃「唐」では皇帝の代理として各地を治めていた「節度使」が中央の統制を離れて権力を持ち、「安禄山の乱」を機に広がった「黄巣の乱」という農民の反乱を鎮められない「唐」に代わって「宋」が起こりました。絶世の美女として有名な「玄宗皇帝」の妻、「楊貴妃」は、安禄山の乱で命を落としています。

 「唐」と同様、朝鮮半島を支配していた「新羅」も農民の反乱によって力を失い、「高句羅」を継承する「高麗」に滅ぼされました。

 遣唐使はこれより少し前に廃止されて、大陸の文化から距離を置いた結果、日本独自の文化が醸成されることになります。「かな文字」が使われるようになりました。「古今和歌集」、「竹取物語」、「枕草子」、「源氏物語」、「今昔物語」などは全てこの時代の作品です。

 政治は「摂関政治」といって、「藤原氏」が天皇を補佐する形で実権を握り、天皇は次第に権威の象徴へと分離して行きます。カトリックの教会の立場と似ていますね。国家には軍隊が付きものですが、東国の群党の鎮圧を目的に編成された武装集団が社会的地位を得、やがて「源氏」と「平氏」の二つの武士団に収斂します。飛鳥時代から奈良時代を通じて、国家の体制を整えるのに懸命だった日本政府でしたが、平安時代ともなると政権内部の勢力争いに明け暮れるようになりました。

 皇室貴族の抗争である「保元の乱」に動員されて勝利した、武士と呼ばれる戦闘集団の長である「平清盛」と「源義朝」が、今度は「平治の乱」で覇を競い、源義朝を討った清盛は、とうとう天皇に次ぐ地位である「従一位太政大臣」にまで上り詰め、妻の妹の子や娘の子を天皇に即位させたりして貴族化しました。政治の中心に座った清盛は一時期「福原(神戸)」に遷都を断行し、盛んに「日宋貿易」を行って最盛期を迎えます。

 清盛が貿易をした頃の「宋」は、ゆくゆく日本と深い関わりを持つことになる「満州族(女真族)」という狩猟民族の征服王朝「金」に追われて都を杭州に移した「南宋」でした。漢民族の王朝である「宋」政権の正当性を、大義名分というイデオロギーで主張する「宋学(朱子学)」は、鎌倉末期に日本に伝わると、天皇に政権を取り戻そうという運動の思想的背景となって「南北朝の対立」をもたらしました。幕末には尊皇攘夷の気運を作り出して倒幕の嵐を呼び、昭和の軍国主義では天皇は現人神となって、攘夷、すなわち連合軍との戦いのために、一億を玉砕の寸前まで駆り立てましたが、これはずっと後の話です。

 この時期ヨーロッパでは、ローマ教皇の指令で盛んに「十字軍」が「ビザンツ帝国」救援に繰り出されていたことは前述しました。

 平安貴族は公地公民制の例外として各地に「荘園」と呼ばれる私有地を所有し、律令体制は実体を失って行きました。地方の開墾地主は土地を京都の貴族の荘園として寄進し、その管理者の名目で土地の使用権を得ると共に、収穫の一部を貴族に納めなければなりませんでした。その開墾地主と貴族との関係に対する蓄積された不満が、やがて平家の治世を揺るがすことになります。

 つまり平安時代は、「唐風文化」を消化して「国風文化」が開花し、政治の実権が貴族から武士に移ると共に、その武士も貴族化し、天皇は権威の象徴に追いやられ、貴族中心に認められた荘園という私有地の出現で律令体制が根底から崩れてゆく時代だったと言えるでしょう。


鎌倉時代

 地方では、開墾した土地を守るために武装した農場主が地方武士集団を形成していましたが、自分たちの農地を貴族に寄進した形式を取らなければ国家から承認されないという「荘園制度」の不合理に対する憤懣は、貴族化した平氏の専横に対する怒りとして各地で噴出し、「源頼朝」を担いで平氏を討った武士政権が鎌倉幕府でした。開墾者に土地の所有を認め、幕府は開墾者同士の紛争の調停者としての役割を担いました。「承久の乱」といって、政治の実権を天皇に戻そうとして破れた「後鳥羽上皇」が「隠岐の島」に流された事件を通じて、天皇はまた一つ権力から遠ざかりました。こうして天皇から「征夷大将軍」に任ぜられた武士の棟梁が幕府を開いて政権を担うというルールが始まりました。「執権政治」と呼ばれる北条氏の権力も、あくまでも将軍の補佐官として成立していました。権力が常に二重構造になってしまう日本という国の不思議な特徴は、この頃から形成されて行くのですね。武家社会の法典として「御成敗式目」も制定されました。

 国家鎮護と切り離された仏教は、本来の姿である個人救済に向かいました。比叡山延暦寺で学んだ僧たちは、それぞれが信じる教典の下に自説を立てて民衆の済度のために山を下りました。法然の「浄土宗」はほとんど平安末期に当たりますが、「栄西」の「臨済宗」、「親鸞」の「浄土真宗」、「道元」の「曹洞宗」、「日連」の「日連宗」、「一遍」の「時宗」など、今日の仏教宗派の主役たちはこの時期に出揃いました。また識字率の低い民衆に造形的に仏教の思想を示す必要から、東大寺の「金剛力士像」に代表される大変リアルな「彫刻文化」が起こりました。

 鎌倉幕府が成立したのとほぼ同時期に、遊牧民族の「チンギスハン」がモンゴルを統一し、弟の「フビライハン」の時代には「金」も「南宋」も滅ぼして「元」を起こします。「元」は大変な勢いでユーラシア世界全体をほぼ支配する大帝国となり、東西の文明が広範囲に融合しました。「元」という遊牧民族の覇権勢力が二度に亘って九州に押し寄せたいわゆる「元寇」が、「文永の役」と「弘安の役」でした。元軍は二度とも結果的には台風により壊滅的被害を受けて敗走しましたが、これが「神風」神話となり、太平洋戦争で根拠のない楽観思想として復活します。

 「御恩奉公」の主従関係で成立していた鎌倉幕府は、「元」の侵入を食い止めはしたものの、勝利した訳ではありませんから、戦いに従事した地方武士に対して「恩」で報いることができず、その不満を力で抑えつけたために信頼を失いました。そこで再び天皇中心の政治を取り戻そうと「楠正成」らと共に倒幕運動を始めたのが「後醍醐天皇」でした。計画は二度発覚し、とうとう隠岐の島へ流されましたが脱出し、「足利尊氏」の加勢で鎌倉幕府を倒して「建武の親政」と呼ばれる天皇の直接政治に着手しました。

 ここまでが鎌倉時代です。天皇との間で権力闘争を繰り返しながら、武士の棟梁である征夷大将軍が幕府を開いて政治を行う体制ができたこと。律令体制が崩れて土地が私有制に移行し、地方に有力な大名が生まれる条件が整ったこと。「元」の襲来という国難に遭って国を挙げて外国を意識したことなどが特徴です。


南北朝時代

 「建武の親政」を行った後醍醐天皇でしたが、せっかく私有化した土地を公地制に戻したり、「建武の中興」に功のあった者ばかりを取り立てたりと、武士階級にとって不満の多い政治であったため、やはり政権は武士が担った方がいいとばかり、足利尊氏を統領にして後醍醐天皇と戦います。もちろん天皇の権威がなくては朱子学にいう大義名分が成り立ちませんから、尊氏は本来、皇位を交代に継ぐべきだった反後醍醐派の公家から「光明天皇」を立て、征夷大将軍として京都の「室町」に幕府を開きました。一方勢力は衰えたとはいえ皇位を譲らない後醍醐天皇は奈良の「吉野」に都を置いて尊氏と対峙しました。これが「南北朝時代」です。この政争の思想的背景に「宋」の時代の「朱子学」の「大義名分論」が影響していることは前に書きましたね。

 尊氏が幕府を開いた三十年後、「元」は農民の反乱や仏教教団である白蓮教徒の「紅巾の乱」に対処し切れずモンゴル高原に撤退し、最後の漢民族王朝の「明」が起こっています。広大な中国の王朝は、たいてい農民の信頼を失っては交替していますね。「明」が制定した「一世一元制」は明治になって日本も採用し現在に至っています。朝鮮半島でも政変があり、「高麗」に代わって明治まで続く「李氏朝鮮」が成立しています。ヨーロッパでは「イギリス」と「フランス」が領土を巡って「百年戦争」を始めています。「ジャンヌダルク」の活躍で危うくフランスが勝利した戦いです。豊かになるにつれて、人間は自由を求めます。「封建制度」と「カトリック教会」という二つの大きな束縛から人間を解放する表現運動がイタリアから起こりました。キリスト教成立以前のギリシャやローマの文化を見直そうという「ルネサンス」運動です。根底には自由に対する欲求がある訳ですから、ルネサンス運動は百年余り後の「宗教改革」や、さらに百年余り後の「市民革命」にもつながる原点と言えるでしょう。

 南北朝時代は、「後醍醐天皇」死亡後も「尊氏」と弟の「直義」の攻防などによりぐずぐずと尾を引いていましたが、尊氏の孫の「義満」の時代になってようやく落ち着きました。


室町時代

 足利家単独政権としての「室町時代」の始まりです。

 義満が将軍になったのは十一歳であったため、足利家の「執事」という名称を「管領」に改めて将軍補佐に当たらせました。管領職には「細川」、「斯波」、「畠山」の三氏が、京都市中の警察と司法を担当する「所司」職には「赤松」、「一色」、「山名」、「京極」の四氏が任じられますが、後に将軍の後継を巡って勢力争いを演じ、「応仁の乱」から「戦国時代」へと突入する役割も担うことになります。

 義満は「明」の皇帝から「日本国王」という立場を得て「勘合貿易」を行い、刀剣や鉱物や工芸品を輸出して、生糸、織物のほか、大量の「永楽通宝」を輸入しています。「貨幣経済」が浸透し始めているのですね。ちなみに「李氏朝鮮」とは対等な関係で幕府以外にも自由に貿易を許し、輸入品の「木綿」は日本人の服装を大きく変えました。

 貨幣経済は流通を盛んにしました。市が立ち人々の暮らしは格段に豊かになりました。豊かな生活は文化を育みます。建築では「書院造」、絵画では「水墨画」、芸能では「能」、「茶の湯」、「生け花」と、日本的と呼ばれるものの大半は室町時代に源流があります。宗教は幕府が庇護した「京都五山」が一時代を築いた後、「曹洞宗」では「永平寺」、「総持寺」、「臨済宗」では「大徳寺」、「妙心寺」のいずれも「禅宗」が庶民にまで浸透しました。特定の商品の利益を独占するために、朝廷や貴族や寺社に税を納めて販売権を取得する「座」という特権組合も登場しました。これを後の「織田信長」が叩き壊すことになるのですね。

 生活が豊かになると、世の中はそう簡単に権力の思い通りにはならなくなります。「惣」という、荘園の枠を超えて自治権を持った村々が、武装して幕府に借金の帳消しを迫る大規模な「一揆」が起きました。将軍家の後継争いが起き、そこへ管領家の家督争いが重なりました。地方の有力「守護大名」が入り乱れて「応仁の乱」と呼ばれる戦いが展開します。乱に乗じて地方では「山城国人一揆」に代表されるように、主家に逆らう地元武装農民たちの「国人一揆」が起きました。京都の油商人から美濃の領主になった「斉藤道三」や、伊勢から出て伊豆、小田原、相模国の領主になった「北条早雲」のような、実力主義の「下克上」が珍しくなくなりました。加賀の「一向一揆」を初め、宗教で結ばれた集団の反乱も起きました。一応、幕府は存続してはいるものの実権を失い、足利義政が「銀閣寺」造営に夢中になっている間に、世は「戦国時代」に突入して行くのです。


戦国時代

 戦国時代はテレビや映画で何度もドラマ化されていますが、かいつまめば、幕府が統制力を失って、中世のルールである「門地」や「家柄」によって固定的だった地方の勢力地図が、「実力主義」で塗り替えられて行く過程です。

 一介の京都の油商人から美濃の守護に取り入り、やがて主人を追い落として領主にのし上がった「斉藤道三」は、娘の「濃姫」を尾張の「織田信長」に嫁がせたあと、長男の「斉藤龍興」に討たれます。道三の側近であったため美濃を逃れた「明智光秀」は、京都で権威だけを保って窮乏していた「足利義昭」将軍の下に身を寄せて、室町幕府の再興を図ります。織田信長は駿河の「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破り、美濃の「斉藤龍興」を討って、美濃を根拠地に京都を目指します。この過程で家臣になったのが、後の「豊臣秀吉」と「明智光秀」でした。

 信長は美濃を岐阜と改めて、「楽市楽座」という自由市場を導入し、それぞれの領地にいた家臣を城下に常駐させて機動的な戦闘集団を編成しました。これは革命的な社会変革でした。流通は盛んになり、家臣はサラリーマンになって領主の命令で迅速に戦場に投入されるようになりました。

 越後の「上杉謙信」と甲斐の「武田信玄」が川中島を挟んでにらみ合いを続けているうちに、信長は、三河の「徳川家康」と同盟を結んで、「足利義昭」補佐の名目で京に入ります。近江の「浅井長政」と越前の「朝倉義景」連合軍を「姉川の戦い」で破り、「比叡山延暦寺」を焼き討ちして反対勢力を一掃した信長は、「信玄」が「三方ケ原の戦い」で家康を破って上京中に病死すると、「足利義昭」を京都から追い出して室町幕府は滅亡します。


安土桃山時代

 信玄の子の「武田勝頼」の騎馬隊を信長の鉄砲隊が「長篠の戦い」で破り、「石山本寺」を降伏させて 「安土城」を築き、いよいよ天下統一を目前にしたところで、「明智光秀」に討たれるのが「本能寺の変」です。中国の「毛利輝元」と対峙していた「秀吉」が「中国大返し」と呼ばれる強行軍で京都に戻り、光秀を打って天下統一を果たすまでが戦国時代ですが、室町幕府が滅んで以降は平行して安土桃山時代が始まっています。

 この間にヨーロッパで起きた二つの大きな変化が日本にも影響を与えています。

 「大航海時代」の幕開けと、「宗教改革」です。中国で「羅針盤」が発明されたこと、イスラムの船を参考にして「三本マスト」の操舵技術が開発されたこと、ビザンツ帝国を滅ぼして巨大になった「オスマントルコ」というイスラム帝国に阻まれて、貿易の迂回路が必要になったこと、マルコポーロの「元」での体験を記録した「東方見聞録」により、アジアへの関心が高まったこと等々が重なって、「スペイン」、「ポルトガル」を中心とした「武装商船」による大航海時代が始まりました。「バスコダガマ」の「インド航路の発見」、「コロンプス」の「アメリカ大陸」の発見、「マゼラン」の「世界一周」は全て日本の戦国時代の出来事です。「種子島」にやって来た「ポルトガル人」によって伝えられた「鉄砲」は、またたくまに国産されるようになり、日本の戦いの形式を一変させて、長篠の戦いで信長を勝利に導きました。ヨーロッパの勢力地図の中心は「イギリス」軍が「スペイン」の「無敵艦隊」を破った辺りから「東インド会社」を設立した「イギリス」、「オランダ」に移って行きます。関が原の戦いとほとんど同時期のことです。

 一方、「カトリック教会」の「権威主義」と「功利主義」に反対して、ドイツの修道士「ルター」による「宗教改革」が始まります。「グーテンベルグ」が発明した「活版印刷」技術によって、聖書がドイツ語に翻訳されて大量に出回ったことも改革を推進しました。教会に頼らない個人信仰者たちは「プロテスタント」と呼ばれて広まって行きます。危機感を抱いたカトリックの「イエズス会」が東洋布教の一環として鹿児島に派遣したのがスペイン人の「フランシスコ・ザビエル」でした。大航海時代ですね。信長はキリスト教を保護することで、果敢にヨーロッパの文化、文明を取り入れました。江戸も鎖国が完成する頃の話になりますが、イギリスではプロテスタントがカトリックと戦って「清教徒革命(市民革命)」が起き、それより早くアメリカに脱出して植民地を作ったプロテスタントたちの「市民自治」や「法律遵守」などの建国の精神が、「自由」、「平等」、「幸福追求権」として「アメリカ独立宣言」の理念となり、「フランス革命」に影響し、戦後の「日本国憲法」に受け継がれますが、これはまた後の話です。

 各地で発掘した「金(ゴールド)の独占」と「南蛮貿易」により豊かな財政基盤を持っていた豊臣政権は、特筆すべき四つの政策を行いました。「検地」という農地面積調査を行って、年貢つまり税の公正な徴収基盤を作りました。「刀狩り」といって、農民から武器を没収して反政府運動の芽を摘み取りました。そして「キリシタンを禁止」しましたが、これには説明が必要です。

 川中島の戦いより三十年余り前に「スペイン」は「メキシコ」を植民地にし、十年後には「フィリピン」を植民地にしていました。日本が国内で戦国絵巻を展開していた頃、世界は大航海時代に突入し、海を越えた戦国時代を迎えていたのですね。もちろん日本も植民地の対象として狙われていました。「宣教師による布教が他国征服の手段」であることを土佐沖に漂流した「スペイン商船」の航海士から聞き出した豊臣政権は、慌ててキリスト教を禁止したのでした。国家の統治者よりも神を上に置く一神教の考え方自体が危険思想であることに気付いたのですね。

 最後の政策は「唐入り」といって、日本にとって大変大きな歴史的禍根を残しました。秀吉の肥大した妄念が「明」を侵略する目的で、朝鮮半島の「李」王朝に二度に亘り攻め込んで「明」「朝鮮」連合軍と戦ったのです。十五万人以上の豊臣軍が海を渡り、一時は朝鮮半島全体を攻め落として「明」に迫りましたが、秀吉の死去で撤退しました。国内は疲弊し、豊臣政権は地方政権の信頼を失い、「徳川家康」を中心にした反豊臣勢力を形勢しました。一方「明」も同様に財政的に疲弊して滅亡の一因になりました。何よりも侵略は、侵略された側に世代を超えた恨みを生みます。侵略を単なる言葉ではなく、押し寄せた他国の兵に破壊される国土と、無惨に殺害される同胞を想像しながら理解しなければなりません。余談になりますが、日本は大和・古墳時代に朝鮮に出兵し、百済と新羅を破りました。白村江にも船団を派遣しました。明治になると朝鮮の支配をめぐって中国大陸を舞台に「日清戦争」を行い、「遼東半島」を割譲させると共に清に「朝鮮の独立」を認めさせました。「三国干渉」による遼東半島返還でロシアと敵対した日本は、再び中国大陸を戦場に「日露戦争」を行って中国国内のロシア租借地を引き継ぎました。続いて「日韓併合」を断行して朝鮮半島を無理やり支配下に置きました。昭和に入ると中国に「満州国」という傀儡政権を建て、十五年間に亘って中国大陸に戦禍をもたらしました。室町期に朝鮮、中国を悩ませた「倭寇」を加えれば、日本は過去数回に亘って両国を武力で脅かした忌まわしい国家ということになります。中国や韓国に今も根強く残る日本に対する不信感は、このような歴史的経緯を考えなければ理解できません。私たちは尖閣諸島を自国のものだと主張する中国にも、竹島に軍隊を常駐させる韓国にも、大変不愉快な感情を抱いていますが、国家を連続する一個の人格であると考えてみると、両国にとって日本こそ信用ならない国家ということになるでしょう。