国家の生い立ち

平成23年12月31日(土)

江戸時代

 さて、「関ヶ原の戦い」を経て「徳川家康」が江戸に幕府を開き、二百六十余年に及ぶ江戸時代が始まりましたが、ほとんど同時期に世界の覇権は「東インド会社」を設立した「イギリス」「オランダ」に移ったことは既に書きました。また「大阪夏の陣」の二年前には、ロシアの前身である「モスクワ大公国」が成立し、鎖国が完成する頃にはイギリスで「清教徒革命」が起き、中国では再び「満州族(女真族)」が「明」を滅ぼして、「清」が起きました。

 「キリスト教禁止令」を徹底し、鎖国方針を決定した徳川政権は、長崎の「出島」から「中国」「朝鮮」「オランダ」との貿易を通じて世界の情報をわずかに取り入れはしましたが、他の地域と交流のない孤島では、独特な進化を遂げる生き物があるように、日本は世界に類のない独自の社会と文化を築きました。

 藩は、藩札という地方貨幣の発行権を持ち、関所という出入国管理機関を有する独立小国家でした。政権は軍事力を背景に天皇から征夷大将軍に任ぜられたことを根拠に、盟主として小国家群を束ねる統治機構でした。だから政権の末期には、「大政奉還」という手品のような手続きによって征夷大将軍の職を天皇に返し、徳川政権は嘘のように元の小国家領主に戻ることができたのですね。税及び公務員の給与が米で支払われる一方で、貨幣経済が併存し、商品流通が盛んに行われるという社会体制は、短期間で矛盾にさらされます。米を貨幣に替えて営まれる政府の財政は当然ながら逼迫し、飢饉が発生する度に米本位経済は破綻寸前に追い込まれます。やがて「大航海時代」から「産業革命」を経て「帝国主義」時代に入ったイギリスによる「清」の侵略を目の当たりにする中で、日本に開国を迫る「アメリカの威力外交」に毅然とした対応のできない徳川政権は、尊皇攘夷を掲げる反対勢力に倒されることになるのですが、その過程を徳川政権が行った改革に沿って併記して見ることに致します。


享保の改革

 「八代将軍徳川吉宗」が、米本位制と貨幣経済のギャップから来る財政危機に対し、「倹約」、「増税」、「貨幣改鋳」などで対処したのが「享保の改革」です。その三十年近く前に、イギリスでは「名誉革命」が起きています。


田沼時代

 九代将軍家重末期から十代将軍家治にかけての老中である「田沼意次」は「重商主義的改革」を行いました。その頃、イギリスでは「産業革命」が進行中でした。「宗教改革」で始まった近世は、経済活動を抑圧する中世の権威からの解放運動であり、解放されたエネルギーは資本主義成立条件の整っていたイギリスで産業革命として結実したのです。期を同じくして人間の自由を尊重する思想的背景となった「モンテスキュー」の「法の精神」や、「ルソー」の「社会契約論」が発表されました。イギリス本国からの理不尽な課税に反対して、「アメリカが独立」を果たし、モンテスキューやルソーの思想は「独立宣言」に影響を与えています。


寛政の改革

 十一代将軍家斉の老中である「松平定信」が、「天明飢饉」や「ロシアの接近」に対して「重農主義的改革」や旗本、御家人の借金返済免除、「鎖国体制強化」などの一連の政策で対応したのが「寛政の改革」でした。同じ頃、「フランス革命」が起き、「人権宣言」が採択されています。「自由」、「平等」、「個人の尊重」、「幸福追求権」を謳う宣言の内容は「アメリカの独立宣言の理念」が継承されています。そののち「伊能忠敬」は蝦夷地を測量し、政府は「異国船打払令」を出しています。「ロシアの脅威」が具体的になっているのです。


天保の改革

 十二代将軍家慶の時代には「天保飢饉」が発生して、「一揆」、「打ちこわし」、「大塩平八郎の乱」が起こりました。これに老中である「水野忠邦」が、寄席、歌舞伎の制限など極端な倹約と増税で対応したのが「天保の改革」でした。「清」はイギリスに「アヘン戦争」で敗れ、波及を恐れた日本政府はそれまでの「異国船打払令」を、より穏やかな「薪水給与令」に変更しています。独立を果たし、「産業革命」を進めた「アメリカ」が、蒸気機関を動力にした「黒船」で「浦賀」に来航して行った恫喝外交に屈し、政府が「日米和親条約」を締結した直後に家慶は死去しました。


安政の改革

 十三代将軍家定の老中である「阿部正弘」は、外様大名「島津斉彬」や親藩・御三家「越前松平慶永」、「水戸徳川斉昭」の幕政参加、海軍伝習所などの「安政の改革」を行いましたが、この辺りになるともう徳川政権への信頼は薄れ、幕末の争乱期が始まっています。


安政の大獄

 「井伊大老」による「安政の大獄」が「桜田門外の変」で幕を閉じた翌年から五年間、アメリカでは「南北戦争」が起きています。アメリカが自国の内乱に忙殺されていたことが当時の日本にとっては幸いでした。


慶応の改革

 「皇女和宮」を「十四代将軍家茂」に嫁がせる「公武合体」政策では尊皇攘夷運動を沈静化できず、フランス軍制を導入した「十五代将軍慶喜」の「慶応の改革」でも尊皇攘夷の波には抗しきれず、とうとう「大政奉還」を行って徳川政権は幕を下ろします。

 ちょうど「マルクス」が「資本論」を発表した年に当たります。


 文明の発生から江戸幕府の崩壊までたどりついたところで、歴史全体を貫いている背骨のようなものについて考えてみたいと思います。

 肥沃な土地に住み着いた人類は、鉄を手に入れて大規模な土木工事を行う能力を得たことにより、収穫は飛躍的に増えました。大規模な工事を行うためには人々が協働しなければなりません。リーダーが誕生し、権力を持ち、統治機構としての国家が成立しました。余剰生産力は食料生産以外の仕事に従事する人間を生み、科学や技術や哲学が発達しました。

 一方、馬に乗って移動生活を行い、農耕民族への略奪を繰り返す遊牧狩猟民族が、時に大集団を形成して世界の勢力地図を大きく塗り替えました。

 人類の大半は複数の神々を祭って、祈ったり畏れたり感謝しながら暮らしていましたが、この世の全てを創造した唯一の神との約束を守って暮らす一神教が誕生しました。

 人口が増加すれば国家は食料増産のために領土の拡大を求めます。生活の豊かさを望めば国家は金属などの資源獲得のために領土の拡大を求めます。もちろんリーダーの覇権欲を実現するための領土の拡大もありました。領土拡大を望む国家にとって、国民の心を一つにまとめるためにも、戦いの相手を否定する根拠にするためにも、一神教は大変都合がよく、また一神教の組織側にとっても権力と結びつくことは勢力拡大に都合がよいため、権力と一神教は一つになって他国を侵略し始めました。

 大航海時代になると、武装した巨大な帆船で富を求めて他国を侵略する先進国家が出現しましたが、産業革命後は利益を求める資本と国家が一体となって植民地を求めました。

 領土拡大の欲求が他の国家と衝突すると戦争が起こり、戦争は異なる文明同志の出会いの機会となって文明を飛躍的に発展させる一方で、世代を超えた民族規模の恨みを作り出し、恨みは新たな戦争の火種になりました。

 こうして攻防を繰り返す世界状況の中で、豊かさを達成した国から順に国民の自由を拘束する権力を否定して民主的国民国家が成立して行きました。つまり、国家は個人同様、豊かさの程度と他者との関係によって独自の歴史と個性を形成してゆくのです。

 以下そのような視点から日本の歴史を時代別に短く整理してみましょう。


  • ギリシャで盛んに哲学や数学が行われた頃、他国と交わらず、六千年もの長期に亘って狩猟採集生活をしていたのが縄文時代でした。
  • ローマが栄え、キリスト教が生まれ、隣国に「秦」「漢」が起きた頃、ルートは不明ながら稲作や鉄が伝わって、小さな国家が誕生したのが弥生時代でした。
  • ゲルマン民族の移動でローマが分裂した頃、「倭国」は朝鮮に出兵して「百済」「新羅」を破り、漢字や儒教を取り入れ、有力者のために方々に古墳が作られる程度には権力が散在していたのが「大和古墳時代」でした。
  • 隣国を統一した「隋」「唐」に倣って仏教を取り入れ、国家の統治機構を整えようとしたのが飛鳥時代でした。
  • 飛鳥時代の仏教政治を踏襲し、「唐」を模倣した国家運営を行ううちに仏教勢力が国政を左右するほどに強大になったのが奈良時代でした。
  • 強大な権力を持つに至った仏教勢力を排除して都を京に移し、「唐」との関係を絶って、国風文化を成熟させながら、貴族化した武士が「宋」と友好的な貿易を行い、「荘園」が拡大して、律令制度が崩れてゆくのが平安時代でした。
  • 天皇を権威の象徴に追いやって誕生した武士政権が、襲来する「元」と戦って政権交代したのが鎌倉時代でした。
  • 「明」から輸入した通貨を利用した貨幣経済の導入により生活が飛躍的に豊かになり、地方が中央に服さなくなってゆくのが室町時代でした。
  • 門地や身分を重視する中世のルールが崩れ、地方政権が実力で覇を競い全国統一を目指したのが戦国時代でした。
  • 全国統一を果たし、「明」の他に大航海時代の覇者である「ポルトガル」の文明を一神教と一緒に取り入れたものの、その覇権主義に気付いて布教を禁止したばかりか、自ら覇権主義に陥って朝鮮半島を侵略したのが安土桃山時代でした。
  • 忍び寄る一神教国家やロシアの脅威を鎖国で排除して安定した地方分権国家を運営した長期政権が、産業革命後の帝国主義に対処できなくなって政権を天皇に返上したのが江戸時代でした。

 こうして日本は明治を迎えます。文明の始まりにおいても、大陸に誕生した巨大国家に驚いて、突貫工事のようにその政治体制を模倣してスタートした日本でしたが、大航海時代の覇権国家から身を守ろうとして長期に亘って国を閉ざしているうちに、世界では産業革命が進み資本と国家が一丸となって他国を侵略する帝国主義時代を迎えていましたから、先進国から無理やり開国させられた時には、文明の始まりの時と同じように、先進国に追いつくための突貫工事を再び始めなければなりませんでした。


明治時代

 明治時代は簡単に言えば日本が幕藩体制という地方分権社会を天皇中心の中央集権国家に改め、身分制度を廃止し、付け焼刃のような近代化を図って、日清、日露という二つの戦争に勝利した時代であったと総括できますが、まずは当時の日本を取り囲む国際情勢から理解しなければなりません。

 鳥羽伏見の戦いとほとんど同時に「ドイツ帝国」が成立しています。「大日本帝国憲法」発布の五年前には「清仏戦争」が勃発して、「清」はベトナムの支配権をフランスに認めさせられています。前後して「ビルマ」は「イギリス」領になり、「インドシナ」は「フランス領」になっています。もちろん「清」は、アヘン戦争以来、領土の一部を「イギリス」、「フランス」、「ロシア」、「アメリカ」に割譲させられていました。要するにアジアは、資本と国家が一つになって有利な通商と、あわよくば植民地化を狙う欧米の帝国主義的侵略の対象になっていたのです。もちろん日本も侵略の対象でした。侵略されないために近代化を急ぐ一方で、日中双方と友好関係を結ぶ独立王国であった「琉球国」をいち早く日本に編入し、「沖縄県」にしました。

 虫が喰うように領土を列強に割譲させられながら、なす術もない「清」と国境を接し、九州の目前に伸びる朝鮮半島は、日本から見ると帝国主義的侵略勢力の導火線のような位置にありました。朝鮮には日本同様、近代化を急いで植民地の悲劇を回避しようとするグループと、「清」を宗主国と仰ぐ旧い儒教体制のグループが対立していました。北に向いた海岸線しか持たないロシアは、機会さえあれば南に開いた港が欲しくてたまりませんでした。「南下するロシア」からの防波堤として朝鮮半島を位置づけた日本は、当然のように改革派を支援して「甲申政変」というクーデターに成功しますが、「清」軍に鎮圧されます。「朝鮮」の内戦に「清」は宗主国として干渉した訳ですが、「朝鮮」を独立国と位置づけたい日本は、これに抗議して軍事的に対立した結果、互いに朝鮮から軍を引き、朝鮮に内乱が発生して派兵する時は互いに通告し合おうという「天津条約」を結びました。そして朝鮮内部で「甲後農民戦争(東学党の乱)」という農民の反政府運動が起きたのを機に、日清両国は「天津条約」に基づいて派兵しましたが、日本が行った朝鮮の内政改革に関する要求を清国が拒否したことによる両国の対立が「日清戦争」に発展して日本が勝利しました。その時結ばれた「日清講和条約」は、賠償金の他に朝鮮を「清」から独立させて「韓国」とし、「遼東半島」、「台湾」、「澎湖諸島」の割譲、欧米同様の条件による「新通商航海条約」と「重慶等四ヶ所の開市開港」、「製造業の許可」を内容とするものでした。これに「ロシア」、「フランス」、「ドイツ」が「三国干渉」と言われる横槍を入れるのです。

 ロシアにとっては、南の良港が日本の領土になるのは不都合でした。フランスやドイツはそれぞれの事情でロシアの関心をアジアに向けておきたい思惑がありました。軍事力で三国にはかなわない日本は止むを得ず要求に従いましたが、それ以来、ロシアを仮想というよりは、現実の敵国として軍備の増強に努めることになるのです。

 ロシア、ドイツ、フランス、イギリスなどの列強は、敗れた「清」を群がり襲うように租借権の設定という形で植民地化して行きました。ロシアは「満州北部横断鉄道敷設権」と「旅順」、「大連」、「金州」の租借権を得ました。蹂躙される「清」の国内では、当然のように農民による外国排斥運動「義和団の乱」が起こりました。日本は「イギリス」に求められて「清」に出兵して乱を鎮圧し、これを契機に、日英は互いの権益を尊重し協力する「日英同盟」を結びましたが、鎮圧後もロシアが兵を引きません。それどころか満州の排他的利益を迫る要求を「清」に拒否されてもロシアは満州に居座り続けました。日本はロシアの満州における権益を認める代わりに、日本の朝鮮における排他的権益を認めさせようとしましたが、ロシアはこれも拒否します。こうして「日露戦争」が開始され、世界のおおむねの予想に反して、弱小国家日本がロシア帝国に勝利しました。背後にはロシアの台頭を阻止したい「イギリスの資金援助」がありました。ロシアは戦争を継続する十分な国力を有していながら、国内に「革命運動」を抱えていたために戦争終結を急ぎ、日本は戦争継続能力が限界に達していたことを国民に隠して戦争終結を急ぎました。日本は「アメリカ」に仲裁を依頼して「ポーツマス条約」にこぎつけましたが、そういう事情でしたから、「韓国保護権」と「南満州鉄道の権利」と「樺太南部の領有」と「遼東半島南部の租借権」を得たものの、強気のロシアからは賠償金までは引き出せませんでした。これを弱腰外交として国民もマスコミも怒りを噴出させるのです。

 一方、中国では「孫文」を中心とした革命勢力「中国同盟会」が結成され、「民族独立」「民権伸張」「民生安定」の「三民主義」を掲げて「清」の打倒を目指します。「中国同盟会」の武装蜂起は失敗するものの、中国各地で「辛亥革命」と呼ばれる独立運動が起きて孫文を臨時大総統とする「中華民国」が建国されました。「清」の代表として孫文と交渉に当たった「袁世凱」は、自分を臨時大総統にすることを条件に皇帝「溥儀」を退位させて「清」は滅亡します。

 大政奉還と同時期にマルクスがあらわした「資本論」は、ロシアや中国で「社会・共産主義運動」として広がりを見せ、日露戦争の終結を早めましたが、日本で社会主義思想を提唱した「幸徳秋水」や「管野スガ」らは、「大逆事件」として弾圧の対象となりました。社会主義運動を封じ込めた日本は、「伊藤博文」がロシアの大蔵大臣との会談会場である「ハルピン」で、韓国の独立運動家の「安重根(アン・チュングン)」に暗殺されたのを機に、ポーツマス条約で認めさせた「韓国保護権」を拡大して「日韓条約」を締結し、正式に日本に「併合」しました。背後にはアメリカがフィリピンを、イギリスがインドを支配することを日本が認めるという交渉がありました。要するに、南下するロシアから日本を防衛するために朝鮮半島を巡って「清」と戦い「ロシア」と戦った日本が、アジアを植民地化する列強の仲間に本格的に加わって行く序章が明治時代であったと言えるでしょう。


大正時代

 大正時代はわずか十四年でしたが、「第一次世界大戦」が勃発して世界の勢力地図が大きく変化した時代でした。背景には「ドイツ」、「オーストリア」、「イタリア」による「三国同盟」と、「イギリス」、「フランス」、「ロシア」による「三国協商」の対立がありました。「イタリア」が「オーストリア」と反目したために、戦争は「ドイツ」、「オーストリア」、「オスマン帝国」、「ブルガリア」の四カ国と「三国協商」側「二十七カ国」の間で行われ、軍需で巨利を得た「アメリカが参戦」することによって「協商側の勝利」で終結しました。

 戦争の渦中「ロシア」では「革命」が起き、「レーニン」率いる「ボリシェビキー(多数派)」が共産党独裁体制の「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させて戦線を離脱しました。この時、共産主義革命の波及を恐れる英、仏、米、日は、反革命勢力を助けて「対ソ干渉戦争」を起こしましたが、「赤軍」に撃退されています。ちなみにソビエトとは「労働協議会」という意味です。

 ドイツでも革命が起こり、ドイツ帝国を倒した「社会民主党」が戦争を終結させて「ワイマール憲法」を制定しました。

 日本はというと、日英同盟を理由に参戦して「中国のドイツ領」を奪い、奪った領土の権益の継承や、「南満州の権益強化」、「中国沿岸の不割譲貸与」などを中心とする「対華二十一か条の要求」を「中華民国」の「袁世凱」に認めさせました。中国ではこれを「国恥記念日」としています。

 国内的には「大正デモクラシー」と言って「自由主義」、「民本主義(吉野作造が唱えた君主憲法下の民主主義)」、「労働運動」、「社会主義運動」が興り、「水平社」による「部落開放運動」が開始され、「日本共産党」が結成されています。ロシア革命の影響ですね。当然反動が生まれます。「関東大震災」のパニックの最中、「水野錬太郎」内務大臣と「赤池濃」警視総監は、社会主義者に先導された朝鮮人による暴動計画があると吹聴して反体制分子に対する弾圧を開始しました。「大杉栄」、「伊藤野枝」夫妻と七歳の甥が、憲兵の「甘粕正彦」に虐殺された事件は「思想弾圧」の象徴と言えるでしょう。

 第一次世界大戦は「ベルサイユ条約で」幕を引き、「ドイツ植民地の解放」及び「多額な賠償金」と「ソ連敵視」を内容とする世界体制は「ベルサイユ体制」と呼ばれています。アメリカの「ウィルソン大統領」の提唱で国際協調を目的に誕生した「国際連盟」は、肝心のアメリカが独立外交を唱えて参加しない無力な機関でした。東ヨーロッパでは「ドイツ帝国」、「オーストリア帝国」、「ロシア帝国」の崩壊により「たくさんの国家が独立」して混迷の度を増して行きます。

 こうして見てくると大正という時代は、世界にイデオロギー対立の火種が生まれた分岐点であったことが分かります。


昭和時代

 昭和は「世界恐慌」で始まりました。第一次世界大戦の終結で、膨らんだ需要の縮小と好景気に沸く投資熱とのバランスが崩れ、アメリカで発生した株式の大暴落がまたたくまに世界に波及したのです。アメリカは敗戦国ドイツの復興支援から手を引き、「ニューディール政策」で内需を創出して危機を切り抜けました。ドイツからの賠償金が途絶えたイギリスとフランスは、「植民地との間の閉鎖的経済圏」を形成して対処しました。恐慌より以前に「計画経済」に移行していたソ連は直接の影響を免れましたが、資源に乏しく十分な植民地を持たない「日本」、「ドイツ」、「イタリア」は、強力な指導者に国家を任せて「植民地の獲得」によって事態の打開を図りました。イタリアでは「ムッソリーニ」の「ファシスタ党」が、全投票の二十五パーセントを超える最大政党に三分の二の議席を与えるという選挙法を定めて一党独裁体制を確立しました。

 ドイツでは「ドイツ労働党(ナチス)」の「ヒトラー」が第一党となり、ナチ以外の政党を解散させ、「アウトバーン」建設で雇用を創出し、労働組合禁止、言論、出版の自由も認めない独裁体制を作りました。いずれも生活不安を背景に台頭する社会,共産勢力を弾圧する形で軍事的独裁が進みました。

 日本は、イタリアやドイツのように明確な指導者ではなく、「五・一五事件」、「二・二六事件」などを経ながら、軍部が主導する形でファシズム体制が形勢されました。日露戦争から第一次世界大戦にかけて獲得した大陸での利権を拡大すべく、「反日勢力」と「社会主義運動」に「弾圧」を加えながら、中国への侵略を開始した日本は、「満州事変」で独立させた「満州国」を、傀儡と断じた「国際連盟」を脱退し、「盧溝橋事件」を皮切りに「十五年戦争」と言われる「日中戦争」に突入します。

 ヨーロッパではナチスドイツが「ゲルマン民族の東方大帝国」を夢想して「チェコスロバキア」全土を支配し、「ポーランド」に侵攻しました。これに対して「イギリス」、「フランス」が宣戦して始まった戦争が「第二次世界大戦」でした。

 ソ連は「独ソ不可侵条約」を結んで「ポーランド」の東半分を得、「フィンランド」の一部を割譲させ、「エストニア」、「ラトビア」、「リトアニア」の「バルト三国」を併合しました。ドイツは「デンマーク」、「ノルウェー」、「オランダ」、「ベルギー」、「北フランス」を占領しました。世界地図で確認すると、当然ながら全ては隣接する国家群です。陸続きで国家が隣接しているという緊張感は、日本人には中々想像できませんね。「南フランス」の「ドゴール」と「イギリス」の「チャーチル」が抵抗を続ける中、ドイツが「バルカン半島」に侵入したために、ソ連は東の不安に対処するために「日ソ不可侵条約」を結び、イギリスと接近します。ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻します。一方、中国では、「蒋介石」率いる「国民党」と「毛沢東」率いる「中国共産党」が対日抗戦で協力体制を整えました。ドイツ有利と見た日本はドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結び、「南方の資源」を求めて「ベトナム」、「カンボジア」、「ラオス」、つまり「仏領インドシナ」に侵攻しました。日ソ不可侵条約でソ連の脅威を除いた直後に独ソが戦争状態となって、この辺りの事態は混沌としています。そんな中で「アメリカ」が「対日資源凍結」と「石油禁輸」を開始するのです。これを「ABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網」と喧伝して国民の危機感を煽り、日本は「真珠湾攻撃」で「アメリカ」、「イギリス」と戦闘状態に入ります。

 その後ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して参戦し、イタリア、ドイツ、日本の順に降伏して第二次世界大戦が終結するまでの様子は、あの忌まわしいきのこ雲の映像と共に終戦記念日の度に繰り返し放映されています。戦後間もなく中国では「毛沢東」の「共産党」が「中華人民共和国」を建国し、「台湾」に移った「蒋介石」は「中華民国」を継承して複雑な政治状況の名残は現在も影を落としていますし、日本から独立した朝鮮は、「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」とに分裂し、アメリカとソ連の政治的対立を代理した緊張が今も終る気配はありません。

 こうして見てくると、恐慌で始まった昭和という時代の実に三分の一近くは戦争をしていたことになります。大量の人間の無念な犠牲の上に現在の繁栄があるのですね。

 日本は無条件降伏の翌年に、占領国であるアメリカの主導で、「大日本帝国憲法」を「日本国憲法」に改めて今日の民主主義国家へと劇的な変貌を遂げました。戦前の教科書の記述を墨で塗りつぶすような安直さで、「臣民」は「国民」になり、主権は天皇から国民に移りました。憲法の骨格には、イギリスの市民革命から名誉革命、アメリカの独立宣言、フランス革命と続く「人権思想」が移植されました。欧米の市民が、圧政を敷く支配者に戦いを挑んで、おびただしい流血の末に勝ち取った「個人の尊重」や「生命・自由・幸福追求」に関する権利を、日本民族は敗戦の結果として易々と手に入れたことになります。憲法は国家の遺伝子ですから、あらゆる律法や政策に一定の方向性を与え続けて今日を迎えています。


 人間は「今日」という世界にしばらく身を置くと、水槽の中の魚のように、昔からそこに住んでいたかのような錯覚を抱く存在のようですね。私たちはうっかりすると昔から堅牢な民主主義国家に所属し、人権思想を信奉して生きているように思ってしまいますが、「今日」という水槽の水はこれまでに二度、総入れ替えがなされています。一度は江戸幕藩体制の崩壊のときであり、いま一度は太平洋戦争敗戦のときでした。両者とも革命的な体制の変更でしたが、民衆の要求によるものではなく、外圧によるものでした。考えてみれば有史以来この国は、他の先進国と異なり、民衆が直接立ち上がって国家の体制が改まったことがないという特徴がありますね。わずかに百姓一揆とか米騒動のような局地的な反体制運動はありましたが、それは地方政権に対する極めて即物的な要求運動でした。大正と昭和に芽生えた左翼運動も、多分に知識階級による思想的なものであって、民衆による圧政への抵抗運動ではありませんでした。珍しく全国規模の反体制運動が起きたと思えば、それは生活実感を伴わない学生運動にとどまりました。

 「易統治性」という言葉を聞いたことがあります。よく言えば従順であり、悪く言えば臆病ということです。わが民族は時の権力に対して比類なく従順な気質を有しているのではないかというのが、ここまで書き終えて残った印象です。一億が火の玉になれと号令されるや、食料もままならない南の島で玉砕しますし、それまで神と言われていた天皇の人間宣言を聞いても戸惑うことなく受け入れてしまいます。鬼畜と呼んで竹槍で戦う覚悟をしていたアメリカ軍にゲリラ戦を挑んだ例を聞かないどころか、原爆投下の被害を忘れてアメリカに軍事基地を提供し、自国の政府以上に信頼を寄せている感があります。壊滅的な震災に見舞われた都市で粛然として暴動が起きなかったのも、同じ従順さの発露であるように思います。派遣労働や有期雇用、あるいはリストラによって国民生活が不安定になり、毎年一つの町が消えてしまうほどの人数が自ら命を絶っていても反政府デモのうねりにはなりません。不満がない訳ではありません。政府に対するチェック機関を自負している野党とマスコミは、常に為政者に対する批判を繰り返し、国民も自分たちの生活を託す総理大臣が改まるや、またしても不信任をつきつけて、政権は安定する兆しは見えません。それでも国は動いて行くと国民は信じています。その楽天的な姿勢が「易統治性」なのです。では、なぜこの国でこのような「易統治性」が涵養されたのでしょうか。

 一つには大陸との間で人の往来はあったにせよ、周囲を海に囲まれたほとんど単一民族のような国家でしたから、特定の民族が他の民族を所有物として隷属させるといった苛烈な支配形態が生まれず、従って被差別体験に根ざした民族レベルの恨みや攻撃性が蓄積されなかったことが挙げられるでしょう。一つには絶対王朝が成立せず、封建的地方分権制に終始したため、民衆の反抗は規模も範囲も封建領主に対するものにとどまって、国家を意識したものにはならなかったことも挙げなくてはなりません。一つには身分制はあるものの領主は領土の所有者というよりは単なる統治機構に過ぎず、支配階級である武士の暮らしは、被支配階級の反感を買うほど豊かなものではなかったことも関係しているでしょう。いま一つには、これは非科学的なようで案外大きな要素かも知れないと密かに思っているのですが、仮に人間の気質が、摂り入れた食べ物の影響を受けるものであるとすれば、米と野菜と魚介を中心に食生活を営む民族の性格は、動物の肉を食べる民族に比べてはるかに易統治的であると想像できます。もちろん魚介と動物とでは、捕獲する側に求められる攻撃性に格段の違いがありますし、自分と同じ哺乳類の命を奪う瞬間の罪悪感も、魚介のそれとは質の差があるでしょう。それやこれやの結果として両者には、生き方にも、思考法にも、宗教にも、猛々しさにおいて別の生き物のような違いが生じたのではないかと思います。

 国家の生い立ちから見えて来たこの国の気質の最大の特徴が「易統治性」であるとすれば、国のリーダーたちはそのことをよく認識した上で国家の運営に当たらなくてはなりません。そもそも民主主義とは、統治の難しい国民のための合意形成の方法論です。人と違う意見を持つこと。議論して少しでも有利な妥協点を見出すこと。議論の結果は神の意思として尊重すること。そういう類の訓練が幼い頃から当たり前のように行われている国家と、他人に異を唱えないことを美徳とする国家とが、抜き差しならない経済的相互依存関係の中で、利害を挟んで渡り合わなければならない時代を迎えています。易統治性国家は議論を嫌いますから、平時は町内の役員会やPTAから国会に至るまで、会議はたいていセレモニーで、ものごとは根回しや談合によって決まって行きます。ところがその方法では対処できない閉塞状態が続くと、議論ができないだけに、声の大きな意見や世の中の空気に易々と従ってしまいます。そのことによって国家を破滅寸前にまで追い込んだことがありました。そのことによって驚異的な復興を遂げたことがありました。いずれにせよ、理想や理念といった国家としての行動原理ではなく、易統治性という気質によって重大な方針が決まって行くことは誉められたことではありません。

 政治と経済のグローバル化がこの国の気質の改善を迫っています。しかしこうして国家の生い立ちをたどってみると、長い年月をかけて形成されて、一人ひとりの遺伝子にまで達している感のある民族の気質の改善が容易ではないことが分かります。これまでもそうであったように、これからも私たちは周囲の国家との間で経験する成功体験や失敗体験を通じて、ゆっくりと変化して行くしかなさそうですが、それが改善であるためには、少なくとも自らの気質について自覚的であることだけは必要最低条件のように思います。