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ジレンマ
平成26年03月11日(火)
男性は八十歳を超えた辺りからとみに認知症の症状が進み、最近ではふらりと通りに出たまま帰れなくなることがありました。
その日も妻がちょっと目を離したすきに外へ出た男性は、見覚えのある町工場の前で立ち止まりました。開け広げられた鉄の扉の青いペンキの色が、昔働いていた工場と同じだったために、記憶が現役の頃に戻ってしまったのでした。
工場に侵入した男性は、巨大な裁断機の操作盤に近づいて黒いボタンを押しました。
安全を示す操作盤の緑のランプが赤に変わると同時にカチャン!という鈍い音が響き、
「うわ!」
と、のたうちまわる人の切断された右の手首から信じられない量の血が飛び散って、コンクリートの床を染めました。
危うく失血死をするところで救急車が到着して、かろうじて一命はとりとめましたが、右手の指は全て失われました。
その被害者をあなただとしましょう。
個人事業主ですから労災の適用にはなりません。傷が癒えても指のない右手では工場は続けられません。もちろん利き腕の使えない五十歳を超えたあなたを雇ってくれる会社はありません。嫁いだ娘は当てにならず、東京の会社に勤務したばかりの息子の収入は、自分の生活を賄うのが精一杯です。妻が働きに出ますが、工場の負債を考えると、自己破産を検討しなければならない状況です。これから先の長い人生を、指のない右手で、どうやって生きて行けばいいものかと途方に暮れるあなたは、加害者である認知症の男性が、億を超える財産の持ち主であることを知るのです。
そこであなたは男性に対する損害賠償の請求について法的な検討を始めるのですが、やがて思いもしなかった法律の壁にぶつかるのです。
損害賠償を請求するためには、原則として相手方に債務不履行責任か、不法行為責任が認められなければなりません。この場合は当然、不法行為責任を問うことになりますが、不法行為責任が成立するためには次の四つの要件を満たしている必要があるのです。
一、加害者に故意または過失が認められること
二、他人の権利または利益を違法に侵害したこと
三、その行為により損害が発生じたこと
四、加害者に責任能力が認められること
問題は責任能力でした。
責任能力とは、法律的な表現に従えば、物事の理非善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力を言います。要するに自分の行動の善悪が分かるということですが、勝手に工場に侵入して裁断機のスイッチを押す行為は、とても善悪をわきまえた人のすることではありません。つまり、認知症の加害者に責任能力は認められず、従って不法行為責任は問えず、損害賠償の対象にはならないのです。
働き盛りのあなたの右手指を奪った、億という財産の持ち主である加害者は、これからものうのうと徘徊を繰り返し、手指も工場も経済基盤も失ったあなたは妻と二人で路頭に迷います。
どうですか?
不合理と言えばこれほどの不合理はありません。そこであなたは、本人から目を離して徘徊を許してしまった妻に対して、監督責任が問えるのではないかと考えます。本人が亡くなれば、財産の半分は妻に相続権がある訳ですから、賠償能力も十分存在します。現に民法には次のような条文があるのです。
民法七一四条
責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
しかし、ここでまたしても法律の壁が立ちはだかるのです。妻は加害者について法定の監督義務を負っていたでしょうか? 事実上負っていたと考えても、片時も目を離さずに夫を監督して徘徊を阻止することまで期待できたでしょうか?いえ、この場合、被害の直接の原因は、徘徊そのものではなく、工場に侵入して裁断機のスイッチを入れる行為であった訳ですが、それは全く予測が不可能であったという意味で、監督の範囲を超えているのではないでしょうか?監督者責任が問えないとなれば、妻にも損害賠償を求めることはできません。
そんな馬鹿な!それでは被害者はやられ損ではないか!
そこで、あなたが今抱いている義憤に似た感情を忘れないまま、次の事例を読んで下さい。