ジレンマ

平成26年03月11日(火)

 九十一歳で重度の認知症の男性が、妻がうとうとした隙に徘徊し、JRの線路に侵入して轢死しました。

 男性は妻と二人暮らしでしたが、高齢の妻は体が弱く、徘徊を繰り返す夫の介護は困難なため、遠方の長男が、自分の妻をわざわざ両親の近くに住まわせて世話をしていました。

 男性には長男を含めて生存する四人の子供がいましたが、一人は外国に住んでいて当てにできず、残りの二人が長男夫婦に協力する形で介護をしていたのでした。

 男性の死亡に伴う遺産相続が完了したのを待って、JRは、列車事故で被った損害の賠償を、大きく三つの法的根拠を挙げて、遺族全員を相手に、提訴という形で請求しました。

 一つ目は、死亡した加害者の損害賠償責任を遺族が相続したという立場での請求でしたが、判決は、そもそも加害者には責任能力が認められないので損害賠償責任は発生しないという理由で否定しました。

 二つ目は、徘徊を繰り返す加害者を介護する立場にあった遺族には、徘徊を防止する注意義務があったにもかかわらず、これを怠ったとして一般不法行為責任を問うものでしたが、判決は加害者の妻にのみこれを認め、夫から目を離すべきではなかったとして妻に損害賠償を求めました。

 三つ目は遺族には責任無能力者である加害者について監督責任があったという立場での請求でしたが、判決は、中心になって介護を担っていた長男にのみ、施設入所やヘルパーサービスの利用などの身上監護も含めた、監督責任を認めて賠償義務を負わせたのです。

 異論が噴出しました。

 まず妻の注意義務について、元気な認知症の高齢者を片時も目を離さないで見守るなどということが可能でしょうか?介護者だってトイレに行きます。睡魔にも襲われます。徘徊した結果、第三者に与えた損害の責任は、目を離した介護者にあるという判例が適用されれば、徘徊を伴う認知症高齢者に対する在宅介護は破綻するでしょう。それは、誰もが住み慣れた地域で暮らせる社会の構築を目指す国の方針とは相いれない結果を招きます。

 次に長男の監督責任は認め、他の子供たちには責任なしとしたことについて、中心になって世話をした者だけに責任が生じるとなれば、認知症の親の介護を引き受ける者はいなくなるでしょう。

 判決はヘルパーサービスの利用にも触れていますが、片時も目を離さず徘徊を阻止する機能をヘルパーは持ちません。そうなれば、徘徊傾向が出た段階で、グループホームを含めた施設利用を決断せざるを得なくなりますが、数が不足していて、申し込んでもおいそれと入所できる施設はありません。必要な施設を整備しないまま、在宅サービスを推奨して来た行政は責任なしと言えるのでしょうか?

 たとえ施設に入所できたとしても、認知症高齢者が施設を抜け出して引き起こした損害について、今度は施設に不法行為責任や監督責任が問われるとなれば、徘徊の程度によっては入所を拒否されるケースが発生するでしょう。ということは、監督困難な認知症の高齢者に限って、在宅生活を余儀なくされるということになるではありませんか。

 そもそも人権尊重が国是とされる時代に、本人の意思に反して施設入所を強制するのは、物理的にも心理的にも大変な困難が伴います。かと言って、徘徊防止を目的に部屋に鍵をかければ虐待扱いされ、目を離せば注意義務を怠った責任を問われ、そんな事態にならないように懸命に尽力した者には監督責任が問われ、一切関わらなかった家族には何の責任も生じないという司法判断を、老親を抱えた国民はどう受け止めたらいいのでしょうか。

 ここに至ってもう一度、冒頭の裁断機の例に戻って頂きましょう。責任無能力者の行為によって右手切断という損害を被ったあなたは、JRの立場と同じです。裁断機のスイッチを押した男性の妻に損害賠償を求めるならば、遺族に賠償を求める今回の判決を否定できません。

 つまり、あなたの親が徘徊を伴う認知症になった場合は、ちょっと目を離した隙に親が行った加害行為の賠償責任は、あなたが負う覚悟が要るのです。

 どうですか?被害者の側に立った自分と、加害者の側に立った自分とが、「責任」という二文字に、全く反対の方向からを向き合っていると思いませんか?

 超高齢社会を迎え、認知症高齢者と共に地域で生きていく必要があるのなら、通常の注意義務や監督義務を超えた責任無能力者の行為を原因とする損害を、社会的に補填する仕組みを作るべきではないかと思うのです。