法と庶民感覚

平成26年03月27日(木)

 六年間続いたNHK文化センターの講座が終了しました。

 平日の午前に開催される講座は、参加者の大半がお年寄りでした。

 関心事は残された人生をいかに充実したものにするかということと、遠くない将来に待ち構えている死をどう受け止めるかに尽きますが、行く手に暗雲のように垂れ込めているのが認知症に対する不安でした。認知症だけは、家族がなっても自分がなっても、人生設計に大きな修正を強いられるのです。


 妻がうとうとした隙に九十一歳の認知症の夫が徘徊し、駅の線路に降りて列車に轢かれるという痛ましい事故がありました。こうむった損害の賠償を求めて遺族を相手に鉄道会社が提訴した裁判の判決は、議論を呼ぶ内容でした。まず本人には責任能力がないとして損害賠償責任を認めず、四人いる子供たちのうち、中心になって父親の世話をした長男には監督責任を、夫から目を離して徘徊を許した妻には一般不法行為責任を認めて、多額の賠償金の支払いを命じたのです。

 親の介護に真剣に向き合えば監督責任を問われ、目を離して徘徊を許せば不法行為責任を問われるとなれば、認知症患者は外から鍵を掛けて閉じ込めておく以外にないではないかという世論が噴出しました。

 それを最後の講座の話題にしたのです。


 当事者の立場になって考えてもらうために、参加者を半分に分けました。一方には鉄道会社のつもりになって、損害を誰にどんな理由で請求するかを考えてもらい、もう一方には認知症患者の家族の役を割り振って、鉄道会社からの請求をどう受け止めるかを考えてもらいました。いわゆるディベイトです。

 そもそも線路に立ち入ってしまうような認知症患者には、責任能力もないのだろうか?四人いる子どもたちの中で、父親の介護に中心になって取り組んでいた長男だけに、監督責任を追求するのは正しいのだろうか?睡魔に襲われてわずかな時間目を離した妻の不注意は、損害賠償に値するほどの過失に当たるのだろうか?

 議論の末、この辺りの論点にたどりつけば、講座の目的は達成されるはずでした。ところがディベイトを始めて見ると、結果はまるで違っていました。以下は複数の参加者による散漫な会話の要約です。


「大変お気の毒ですが、発生した損害は加害者に請求しなければならないでしょうね。そのままにすれば、結果的に乗客が運賃として負担することになります。列車が止まり、ダイヤが乱れ、一番迷惑をこうむったはずの乗客が、損害賠償の費用まで負担させられるのはどう考えても不合理ですからね」

 これが鉄道会社側に立ったグループの一致した意見でした。

「…と言うことは、賠償の責任は誰にあるのですか?」

「列車を止めた本人に決まってるじゃないですか」

「線路に入ることの危険が分からない程度に判断能力を失っていても、賠償責任があると言うことですか?」

「認知症であっても損害を与えたのは事実です。責任は免れようがありません」

「しかし、本人は死亡しているのですよ。この世にいない人にどうやって損害賠償を請求するのですか?」

「妻や子供が支払うべきですよ。本人の財産を相続するのですからね」

「ということは、例えば次男に全財産を相続させる遺言があった場合には、次男が支払うということになりますか?」

「それはそうでしょう。相続したのですから」

「それじゃ、本人には財産がなくて、子供たちがそれぞれに裕福という場合はどうなるのですか?」

「裕福なら支払うべきでしょう。家族なのですからね」

「え?相続しなくても、裕福ならば賠償するということですか?」

「親子ですよ。親が無理なら子供が支払うしかないでしょう」

「親に財産がなく、息子夫婦も細々と暮らしているような場合はどうなりますか?何の落ち度もない息子夫婦は、親の賠償金を支払うために、僅かな老後の貯えと土地家屋を手放して、安アパートに引っ越すということになりますか?」

「ん…何もなければ支払いようもありませんが、処分価値の高い土地を所有していたり、たとえ老後の資金でも、ある程度まとまった貯えがあるのなら、気の毒だけどそういうことになるでしょうね。やはり家族が責任を取らないと…」