法と庶民感覚

平成26年03月27日(木)

 どうやら鉄道会社グループには、加害者の責任能力を問題にする視点はないようです。

 人に損害を与えれば賠償する。本人が支払えなければ家族が支払う。単純明快です。そこには責任能力のないところに損害賠償は発生しないという民法の原則など入り込む余地がありません。一方、認知症患者の家族になったグループの意見はどうだったかと言いますと、

「そりゃあ、父親のやったことだもの、子供たちで協力して何とかしなければならないでしょうね」

 …と、これで終りでした。

 人に損害を与えれば賠償する。本人が支払えなければ家族が支払う。これが庶民感覚なのですね。誰がどういう責任を負うべきなのかを追求する姿勢は希薄です。


「個人」というものが確立することによって近代の幕が開いたことを思うと、この種の問題に家族で対処しようとする態度は近代以前のものと言わなくてはなりません。

 考えて見れば我々の文化は非常に根源的な場面で家族主義ですね。個人と個人の恋愛によって成立した結婚も、対外的になったとたんに両家の式や披露宴に変わります。人が死ねば家単位の葬儀で送られて、骨になれば家単位の墓に葬られます。いい悪いは別にして、個人毎に墓標を立てる欧米とは、人間の在り方に大きな隔たりがあるように思います。

 個人の責任を追求するよりは、家族で協力して何とかしてしまう体質は、そのまま職場に拡大し、さらには国家に広がって、大きな問題になればなるほど責任を曖昧にしてしまいます。シートベルトをしていない現場を警察官に見つかれば、個人の責任として容赦なく反則切符を切られますが、薬害エイズ、原子炉メルトダウンの隠蔽、放射能汚染地域への誤った避難誘導など、国家を揺るがすような問題については、責任は霧の中です。そしてとうとう、国家と国民の最も重要な契約である憲法まで、条文を一字一句変えないまま、これまでとは百八十度異なる内容に変更する作業を、内閣という言わば家族の中の話し合いで断行しようとしています。議論せず、敵を作らず、結果的に責任を曖昧にする悪しき家族主義は、一国の政治にまで蔓延しているのです。

 どうすればいいのでしょうか。

 社会が個人の権利義務を中心に据えた近代法体系で運営されている以上、法と庶民感覚のズレは是正されなくてはなりませんが、ディベイトはそれが容易ではないことを教えてくれました。ことは民族の体質に関わっているだけに、改善は遠回りの様でも幼少期から着手する必要があります。家庭で、保育所で、学校で、個人の権利と義務と責任が明確になるような場面を意図的に増やさなくてはなりません。そして集団の秩序を守るためのルール作りと、そのルールが不都合になった場合の改定方法と、利害の対立をルールに則って解決する体験学習を、教育プログラムに横断的に組み込まなければなりません。

 個人が、相互依存的な集団の一部という現在の在りようから、相互自立的な集団の構成員へと変貌すれば、今回取り上げた認知症患者の鉄道事故に限らず、いじめ問題も虐待問題も、対処の道筋は随分と論理的なものになるのではないでしょうか。