世界平和の可能性

平成26年04月13日(日)

 少し前に、エジプトでとんでもない混乱があったのを覚えていますか?選挙で選ばれたばかりの大統領の治世に対する不満が国民レベルで爆発して、とうとう軍が介入する事態に至ったものでした。行政府を離れて軍が自らの意思で行動できる国家のシステムにも驚きますが、広場を埋め尽くすたくさんの民衆のエネルギーにはもっと驚かされます。同じことが日本で起きたらどうでしょう。国民はあんなふうに怒りを表現するでしょうか。

 現に日本の政治状況も極限状態を呈しています。急速な少子化で年金の設計は狂い、将来、老後生活を支えるだけの金額が保障されるかどうかも分からないまま、給料からは決して安くない厚生年金保険料が天引きされています。不安定就労の増加は若者の低所得化を招き、国民年金では、毎年、滞納、未納の増加が指摘されています。所得格差ははなはだしく、住居を失った不安定就労者を、細かく仕切った窓のない倉庫に住まわせて利益を上げる、脱法アパートなるものが出現しています。規制を強化すれば、不適切なアバートは減る一方で、路上生活者は増加するでしょう。病苦、生活苦で自ら命を断つ人の数は毎年三万人前後で推移しており、その数は、東日本大震災の犠牲者のほとんど倍に達します。つまり石川県の輪島市程度の町が毎年自殺で消滅している計算になるのです。福島原発の事故処理は遅々として進まず、震災から二年以上が経過した今でも、原因不明の地下水汚染が指摘されています。除染ごみは最終処分ができないまま青いビニールシートにくるまれて放置されています。にもかかわらず、そんなことはなかったかのように、政府は新しい安全基準なるものを策定して原発の再稼動に動き出しています。最近では、敗戦以来、歴代の政府が守りぬいて来た集団的自衛権不行使の鉄則を、憲法解釈の変更によって可能にする計画が進行しています。

 それでもわが国では、エジプトのように国民の怒りが爆発する気配はありません。個人の手に余る問題に対しては、連帯して立ち向かうより、身を縮めてやり過ごす国民性なのでしょう。あるいは周囲の人間との対立を恐れる余り、意見の分かれる問題に関しては口をつぐんでしまう国民性なのかも知れません。いずれにしても政府にとっては大変統治し易い国民であることに違いなく、犠牲者を出してでも大統領に退陣を迫るエジプトの国民とはまるで別の生き物のようです。

 エジプトだけではありません。地中海南岸をさらに東に向かえば、ヨルダン、イスラエル、レバノン、シリア、イラク、イラン…と、名だたる紛争地が続きます。妥協を知らない激しさを持つ民族だからこそ、統治するためには強力な権力と武力が必要であり、戒律の厳しい一神教が生まれ、利害が対立すれば、容赦なく流血の事態に発展するのですね。

 どちらがいいのかは難しい問題です。

 人類の目標である「平和」が、単に争いのない状態を指すのであれば、不本意な政治状況について声高に異を唱えない我が国は、平和に最も近い国柄であると言えなくもありませんが、果たして池の中の鯉は平和でしょうか?籠の中の鳥は平和でしょうか?与えられた環境の不都合について、居酒屋で気炎を上げることはあっても、力ずくで変革しようとしない国民性は、平和的ではなくて臆病なのだとも言えそうです。かつて国家が戦争一色に染まっていく過程で反体制的言動が受けた激しい弾圧の記憶が臆病となって、私たちを意識の根底で支配しているような気がする一方で、そもそも臆病な国民性だからこそ、官憲もメディアも国民も、軍が主導する国家の方針に諾々と従って一億火の玉を覚悟したのではないかとも思えます。いずれにしても、意見を言わない私たちは、選挙を含めて、所属する集団の意思決定のプロセスに積極的に関与することを敬遠します。そして、それと同じ文脈で、所属する集団の決定や、声の大きな人の発言には類のない従順性を発揮するのです。