世界平和の可能性

平成26年04月13日(日)

 ここまでは国民の側で政府との関係について考えて来ましたが、ひるがえって、国家の側に立ってみるとどうでしょう。

 大和朝廷の成立から源平の盛衰を経て、群雄割拠する戦国の動乱の末、徳川幕府が一国の和平を達成するまでは、統一事業は信長が宣言した通り天下布武の過程でした。武力によって覇者となった者を頂点に、広く一国の秩序が形成された訳ですが、天下を平定したのちも、平和を維持するためには、背後に反逆を許さない強大な武力を必要としました。やがて三百年の太平に慣れて、統治全般に制度疲労が生じた頃、江戸湾にやって来た黒船の放つ数発の大砲によって再び一国の平和は崩れ、幕末の動乱に突入しました。明治という近代国家も、薩長を軸とする新政府の武力を背景に達成されたのでした。諸外国の歴史を見ても、同様の経過をたどって近代国家が成立しています。要するに国家レベルの広域統治を完成させるまでには、武力による覇権争いというプロセスが必要であったのです。

 そこで、地球規模で現在の世界の様相を眺めてみると、それぞれの国が武力を持って、利害の一致する国同士が同盟を結び、利害が対立すれば紛争を繰り返しながら、互いに綱渡りのような政治決定を行っています。まるで群雄割拠する戦国時代と変わらないではありませんか。歴史に学ぶとしたら、地球上の人類が一つの国家のように統一されて、共通の秩序の下に平和に暮らす日を実現するためには、一国の統一過程同様の覇権争いが必要になるでしょう。言葉が違い、文化が違い、政治体制が違い、背負っている歴史が違うという条件を考えると、困難は一国の統一の比ではありません。つまりは、多様な人類を統治するために最も相応しい政治体制を持つ国が、他を圧倒する軍事力を背景にして統一事業を推進することになりますが、世界が一つの価値観と社会秩序で統一されることが果たして可能でしょうか?冒頭のエジプトを初めとする紛争地域の現状を考えると、絶望的にならざるを得ません…となると、世界はこれからも戦国時代が続くと考えなくてはなりません。そういう認識に基づいて、我が国も集団的自衛権という名の下に武装強化を図ろうとしているのです。

 人類は二度にわたる世界規模の大戦を経て、流血の事態には懲りているはずです。それでも国家が対立の果てに実力行使の可能性を秘めている以上、防衛を大義とする紛争は避けられそうにありません。唯一大規模な紛争回避の方法があるとすれば、抜き差しならない経済状況の構築ではないかと思います。関税を初めとする自由貿易の障壁を取り除き、富める国への利益の集中を図るという方向ではなく、食糧、エネルギー、加工技術、輸送手段等のライフ資源や通貨流通について、主要国家間の相互依存度を意図的かつ計画的に強化するのです。一国の破綻が全体の破綻をもたらすような相互依存が成立すれば、戦争は容易にはできません。国連が各国の利害を調整する現在の役割を超えて、常に経済的な相互依存を強化する立場での調整能力と権限を持つことが、針の穴を通すようなか細さながらも世界平和の可能性ではないかと思うのです。