自由の反対は不自由か?

平成27年01月23日(金)

 私が育った故郷の町の様子をご紹介しましょう。わずか十六軒の町内に、菓子屋、印刷屋、インク製造工場、お好み焼き屋、床屋、味噌と餅の製造販売店、肉屋、味噌醤油の小売店、畳屋、指物屋…と、実に十軒の自営業が店を構えていました。残りの五軒は、山仕事の一人を除けば、銀行員、専売公社社員、教員が三名と、お固い月給取りばかりでした。

 隣町に目を転ずると、写真屋、材木屋、文房具屋、洋服屋、うどん屋、ペンキ屋、八百屋、帽子屋、ガラス屋、仏壇屋、金物屋、化粧品屋、履物屋、洋菓子屋、種屋、薬屋、染物屋…と、様々ななりわいが軒を連ねます。

 私が中学生の頃、町の中央に主婦の店という大型スーパーができました。すると、肉屋、味噌醤油の小売店、八百屋、洋菓子屋が次々と姿を消しました。やがて広大な駐車場を備えてスーパーが町外れに移転すると、車に乗らない高齢者の買い物は不便になりました。

 食料品を中心とするスーパーだから帽子屋も洋服屋も文房具屋も薬屋も廃業を免れましたが、都市部のように、生活用品から家電、アクセサリーまで、ありとあらゆる商品を扱う大型店舗が進出したりすれば、小売商店はおろか、中途半端なスーパーも無くなってしまうことでしょう。

 自由競争とは、そういうものです。

 これが国際規模で行われるのがTPPだと考えれば、私たちは、そのメリットとデメリットを、既に国内規模で経験しているのです。

 均質で多彩な商品を一か所で安く購入できるようになった一方で、商店街はシャッターを下ろして賑わいを失い、店舗の経営者は職を失いました。店を愛する店主や馴染みの店員との心温まる会話は、若いアルバイト店員によるマニュアル通りの接客に代わりました。町内の八百屋や肉屋で近所の主婦たちが買い物かごを下げて世間話に興じる姿はもう見ることはできなくなりました。それぞれが車でスーパーに乗り付けて一週間分の買い物を済ませると、そそくさと帰って行くのです。私たちは大量消費生活と引き換えに、地域で日常が完結するコミュニティを失くしてしまったのですが、そのかけがえのなさは失ってから思い知ります。進む高齢化を地域で支えるために、どんなにコミュニティの再生が叫ばれても、容易に取り返しがつかないのです。

 近代は、圧政や身分制度からの自由を求めて幕を開けましたから、自由という言葉には魔力があります。自由は常に観念の上で正義であり、明るい陽射しを浴びていますが、不自由には出口のない暗いイメージがつきまといます。私たちには長い間、自由を不自由の対立概念と考える習慣があるために、自由か不自由かの二者択一を迫られると、どうしても自由を選択する傾向があります。自由貿易も新自由主義も、自由と名がつくと、上空には正義の旗がはためいているように感じるのです。しかし自由の反対は本当に不自由なのでしょうか?

 新幹線に例えれば、自由席の反対は指定席です。不自由席ではありません。必ず座ることができる指定席に比べれば、むしろ空席の有無が不確実な自由席こそ、不自由席と言わなくてはなりません。乗客は指定料金を支払って座る自由を確保したのです。もっと快適な環境を求める人のためにはグリーン車両があります。ゆったりとくつろいで旅をしたいという乗客の意思は、それに見合った対価を支払って叶える自由が鉄道システムに用意されているのです。同じ列車にグリーンと指定と自由の三つの車両が設けられているのは不自由でしょうか、それとも多様なニーズを叶えるための知恵でしょうか。乗客には座って旅をしてもらいたい。ワゴンによる車内販売サービスも提供したい。プラットホームに長蛇の列を作らなくても、発車時刻少し前に来れば乗車できる体制にしたい。そんなビジョンが鉄道会社にあれば、座席指定のシステムを採用するしかありません。むしろ自由席車両こそ、たとえ座れなくても、とにかく最初に入って来る列車に乗りたい人のための例外的な配慮なのです。