自由の反対は不自由か?

平成27年01月23日(金)

 鉄道を国家に置き換えてみましょう。

 国家を運営するためには、まずはこの国をどんな国にしたいかという基本的なビジョンがなくてはなりません。例えば稲作文化を守るというビジョンを持てば、少し費用をかけても…つまり国民が少し高い米を食べることになってでも、日本の米のために指定席を用意するべきでしょう。広大な農場で大量に生産する外国の安い米と競争させれば、黄金色の田園風景も、山頂まで続く棚田の景色も、豊作を祈る春祭りも、収穫に感謝する秋祭りも、ちょうど大型店舗の出現で姿を消した商店街の賑わいや、八百屋や肉屋の店先で交わされた主婦の会話のように消えてしまいます。深刻なのは国産の米が消えることではありません。背後でそれを支える精神も含めた稲作文化が無くなることなのです。

 それぞれの国にビジョンがあり、守りたい文化や産業があります。それを弱肉強食の競争に晒さないために関税自主権があります。国と国がお付き合いをするに当たって条約を結び、お互いに国益上不都合な輸入品に一定の税金をかける権利を認め合うのです。かつて国力のある国が弱い国を単なる市場にしたければ、相手国に関税自主権を認めない不平等な条約を結びました。私たちの国も安政の時代に半ば強制的に締結させられた不平等条約を苦労して改正した歴史を持っています。それが今、自由という価値を大義名分に再び復活しようとしているのです。

 本来、人間は自由な存在でした。今でも野生の生き物は自由です。魚にも動物にも群れて暮らす種類があるように、人間も集団を形成しなければ生きられません。大きな規模になった人間の集団には、それを統治する機構が必要でした。やがて統治機構が、武力を背景に圧政を敷いて、統治ではなく支配や搾取をするようになると、支配される側の人間の暮らしは不自由になりました。そこで人々は武器を持って支配者を倒すと共に、改めて法や規約に基づく統治機構を作って、一定の秩序の下での自由を手に入れて現在に至っています。つまり近代の自由は、そもそもが法や規約という不自由を内包しているのです。私たちは財産を奪い合う自由を規制し、警察という公権力を維持する費用を負担して、安全に暮らす自由を享受しています。無制限にスピードを出す自由を規制し、標識の設置や交通取締の費用を負担して、道路を安全に使用する自由を享受しています。自由の反対は不自由という単純な発想は改めなくてはなりません。

 私には難しい経済の理論も国際情勢も分かりません。特定の産業を守ろうとすれば、別の産業がどんな不利益を被るのかも分かりません。しかし、そもそも石油がなければ、トラクターも動かず、輸送もできず、火力発電もできないのだから、特定の産業を保護することなど意味がないと言う考えは、国家運営の放棄のような気がします。どの国にも得意な産業と不得意な産業があります。複数の国家同士が経済的に何をどの程度依存し、それぞれの文化や秩序を守りながら、どう共存を図るかについて、経済を超えた相互理解を促進する努力こそが政治であり、外交でなければなりません。大資本を背景に、自由という輝かしい価値を振りかざして開国を迫るペリー提督が、江戸湾で再び大砲を放っています。不自由は自由の対立概念ではありません。今こそ本当の自由が内包する不自由の意義についてひるまず主張する哲学が求められているのではないでしょうか。