落とし物

平成27年10月20日(火)

 あと七分です。

「切符が落ちていました。次の岡山行きです」

 男性が切符をかざして大きな声で言いました。

 駅員はちらりと切符を見ましたが、何も聞こえなかったような表情で業務に専念しています。あの…と男性がさらに訴えようとするのですが、駅員は男性の顔も見ないで、まるで天安門前の兵士のように取り付く島がありません。

 駅員の傍らに立って、やきもきしながら過ごす時間は、恐ろしく長く感じました。

 やがて全ての乗客が乗り終えて一斉に列車のドアが閉まりました。

 あと五分です。

「あの…落とした人も困っていると思います。アナウンスできませんか?」

 駅員は、それでも返事をする気配もなく、遠ざかる列車を見送って立ち尽くしていましたが、列車が視界から消えるのを確認して、ようやく任務から解放されました。

 あと三分です。

「切符が落ちていたんです。アナウンスできませんか?」

 男性が差し出す三枚の切符を駅員が受け取って、

「どこで拾いましたか?」

 と警察の様な口調で尋ねましたが、男性にも都合があるのでしょう。

「私、急ぎますので…」

 足早に階段を下りる途中で振り向いて、私に軽く手を挙げました。

 そのとき、岡山行きの列車が入りました。

 駅員はマイクを取り上げました。

「高松までの切符を落とされたお客様、列車には連絡を致しますので、どうぞそのままお乗りになって、車掌に指定席をお尋ね下さい」

 そうアナウンスするのかと思いきや、聞こえて来たのは、黄色い線の内側まで下がれという、定型的なアナウンスでした。

 拾い主がいなくなった今、私には切符の顛末を見届ける義務があるような気がして駅員を注視し続けました。駅員はプラットホームの柱に備え付けられた小さな灰色の金属製の箱の中へ三枚の切符を収納して鍵をかけ、乗客の安全を守る本来の任務に就きました。岡山行きを見送ると、東京行きが入り、東京行きに続いて大阪行きが到着して、駅員には他のことをするゆとりなどないまま、とうとう私の列車が入りました。

 そこから先は分かりません。

 切符の落とし主はどんな人なのでしょう。大切な切符を三枚とも、うっかり落としてしまうくらいですから、お年寄りかも知れません。一人で旅をしているのでしょうか?それとも連れがいるのでしょうか?切符がないことに乗車直前に気が付いて、駅員に尋ねたでしょうか?いえ、尋ねようにも、私たち同様、親切に質問に答えてくれる時間的ゆとりのある駅員は見つからないでしょう。目的の列車を断念したとすれば、大切な用事に間に合わなかったのではないでしょうか?

「ハンカチを取り出すとき付いて落ちるから、切符はポケットに入れるなと、いつも私が言ってるじゃないですか!」

 叱られてうろたえるお爺さんの顔まで浮かんで来ます。

 米原で乗り換えて福井に着いても、気がかりが消えない私の心に、階段を下りる途中で振り向いて、軽く手を挙げたカッターシャツの男性の柔和な顔と、列車を見送って指差しをする駅員の厳しい顔が交互に浮かんでいました。