『で』の値段

平成27年01月30日(金)

 食事など誰も済ませてはいないのに、このあたりの会話は貧乏人のあ・うんの呼吸です。

「予算を決めて、あとはみつくろってもらうってのはどう?」

「それはいい考えだよ、な?」

「ええ。全員で一万円って感じでいいんじゃない?」

「よし決まりだな」

 みんな安心したように一斉にメニューを閉じました。店主に伝えるのは、もちろん私の役割です。

「あの、ご主人、全員で一万円の予算でみつくろってくれませんか?」

「一万円ですね?かしこまりました」

 短いやりとりでしたが、その間に大きな伝達ミスが発生したことに、まだ誰も気付いてはいませんでした。

 ワインが出て、おいしくいただきました。一口料理が運ばれて、これもおいしくいただきました。サラダに続いてスープが出て、パンが運ばれた時には、あれ?これで終わりかな…と、少し不本意でしたが、魚料理が出て、デザートが運ばれると、四人の顔に満足の色が浮かびました。ところが、さらに柔らかいステーキが出るに及んで、四人の表情から笑顔が消えました。そして一斉に額を寄せて声を落とし、

「これって、ひょっとすると…」

「でしょ?私もおかしいな…と思うのよ」

「でも、おれ、確かに全員で一万円って言ったよな」

「言った、言った、間違いなく言った」

「しかし、シェフには、全員で…の、で…が聞こえなかったのかも知れないぞ」

「…ということは、一人、一万円!」

 四人が申し合わせたように財布の中身を確かめました。それから先は、笑えば口元が引きつり、冗談を言っても全員が伏し目がちで、チーズ、デザート、コーヒー…と続くコース料理の終盤は、何を食べたかさえ判然としませんでした。

 全部で四万円を支払い、意気消沈して帰宅した翌朝、出勤する私の車に駆け寄って、

「主人ったらね、あれから気分が悪くなって食べたものを吐いたのよ」

 隣りの主婦は秘密を打ち明けるような顔で言ったのでした。