不惑

平成27年08月24日(月)

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」というのは、有名な論語の『為政』の一節です。

 私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人の言葉に素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなったという意味です。

 紀元前のこの作者の言葉に照らして我が身を振り返るとどうでしょう。

「吾十有五にして学に志す]に言う「学」とは、科学ではなくて、いわゆる哲学だと考えられます。

 祖母がくべる薪が、かまどの中で赤く燃える様子を、傍らの切り株に座って眺めながら、

「お婆ちゃん、死んだら焼かれるんやろ?」

「…」

「怖ぉないか?」

 と私が聞くと、

「おいさよ…」

 祖母は火吹き竹の手を休めて、しばらく燃え盛る火を見つめ、

「死ぬまでは生きとる。死んだら分からんやろうも」

 そんなやり取りをして以来、私の心に、生きることと死ぬこと、つまりは存在ということに対する問いが棲み付いて、片時も離れません。人は死ぬとどうなるのだろう…。どうせ死ぬことが決まっている人生に、どんな意味があるのだろう…。あれは十五歳の時でしたから、古今、人生の本質について考え始める年齢は思春期であるようです。

 祖母の遺体を実際に火葬に付したのは三十二歳の時でした。同じ年に祖父の骨を墓に収めました。四十二歳には全身麻酔下で直腸の腫瘍を切除し、翌年、胆嚢を摘出しました。その後発症した喘息が悪化して、明け方になる度に、枕元をティッシュの山にして激しく咳き込みながら、ふいに、人生は味わうものだという、哲学とも言えぬような決着を見たのが五十歳の頃でした。それから先、生きる意味についての私の考え方は変わりません。これを不惑を得たと考えれば、孔子の言う年齢からは実に十年以上遅れています。しかし、人生は味わうものだと断じたとたんに、今まで以上に惑わずにはいられないという、大変悩ましい事態に陥るのです。

 しっかりと人生を味わおうとすれば、手を抜いて生きる訳には行きません。いい加減に高をくくった人生からは、いい加減な味わいしか得られません。ところが、たくさんの社会的なしがらみにからめ捕られた年齢になって、手を抜かずに生きるというのは、なかなかにしんどいことなのです。自分にとって何が大切かを見失うことなく、不利益と分かっていても、譲れないものは譲らないで生きようとする時、頬を打つ向かい風が、味わうべき人生であったように思います。

 しかも、親が不惑の年齢になった頃、子は立つべき年齢である三十歳に満たず、かろうじて立ったとしても、不惑の年齢になるまでには、さらに十年を残しています。進学、就職、結婚、出産、起業…わが子が惑う度に親も惑います。進学希望の息子が、勉強よりも音楽に夢中になっていることに気を揉み、就職が内定した会社の規模や不安定さを憂い、結婚相手との家庭環境の違いに不安を募らせ、生まれてくる孫の無事を祈り、守るべき家庭があるにもかかわらず、退職して起業するという無謀さや軽率さに憤り…それやこれやを味わうことは、惑うことと紙一重なのです。