金魚のいのち

平成29年01月08日(日)

 A子がいなくなった水槽を広々と泳ぎ回りながら、B子は寂しそうでした。終日泳いでいても誰にも出会いません。仲良くする相手も喧嘩する相手もいません。暗くなれば水槽の底でじっと身を潜め、明るくなると泳ぎ出て、与えられた餌を競う必要もないのです。もしも私がそんな生活を強いられたら…と想像したとたんに、いたたまれなくなりました。生きものは独りで生きるべきではありません。仲良くしたり、反目したり…自分以外の誰かを意識する緊張の中にこそ、生きている実感があるのだと思います。

 早速、ペットショップに出かけ、同じ種類の金魚を二匹買って来ました。三匹になった金魚はすぐに馴染み、水槽は賑やかになりました。今度は上手く飼うぞ…と決意も新たに、二度と金魚が外へ飛び出すことのないようにプラスチックの蓋をし、日曜日の度に徹底的に大掃除をして水槽を清潔に保ちました。別の容器に金魚を移しておいて、餌の食べ残しやフンで汚れた砂を、米を研ぐように流水で丁寧に洗います。総入れ替えした水には、ぬかりなく定量のカルキ抜きの薬液を入れます。消毒を兼ねて熱湯で丹念に汚れを落とした人工の水草と、ろ過材を交換したエアー装置を所定の位置に置いてスイッチを入れると、LED照明の下で、水槽は一週間ぶりにうっとりするような透明度を取り戻します。誰かに愛される喜びよりも、いたいけなものを慈しむ喜びの方が、努力を要する分、確実に上質で手ごたえがありますね。視界が鮮明になった水槽に戻されて、嬉しそうに泳ぐ金魚たちの様子を眺めながら、私は満ち足りた気持ちになりました…が、そんな幸せも長くは続かなかったのです。

 その日いつものように私は、自分の朝食より先に、小さじ三分の一ほどの量の餌を水槽の水面に浮かべましたが、群がる金魚たちに勢いがありません。目を凝らすと、一匹の全身に小さな空気の泡のようなものが付着しています。病気?インターネットで調べると、どうやらこれは気泡症といって、水中の酸素の量が過剰になって発生する症状のようです。紹介してある治療法に従って、早速、エアーを止め、水を替え、所定の濃度になるように水槽に塩を入れて様子を見ました。しかし二日経っても金魚は元気になる気配がありません。それどころか、他の二匹の体にも白い小さな泡が付き始めました。酸素の供給を止めているのに症状が広がるということは、金魚は気泡症ではなくて、何らかの感染症に侵されていると考えた方がよさそうです。感染症なら一刻も早く対処しなければ菌が増殖してしまいます。私は三匹の病んだ金魚を別の容器に移し、水槽の滅菌に取り掛かりました。病原菌の温床になっている可能性の高い底砂は、思い切って全部捨てました。水槽はもちろんのこと、人工の水草もよく洗って熱湯を注ぎました。新しい砂を敷き、カルキ抜きした新しい水を満たした水槽に弱った金魚たちを戻すと、三匹は底に沈んだまま動きません。そう言えば、いつだったか動物はじっと身動きをしないで病気を治すと聞いたことがあります。人間も金魚も安静は治療の基本です。三匹の金魚は今、無菌室に入院して安静治療を受けているのです。日にち薬という言葉があるように、やがて体力が回復すれば症状は少しずつ改善するに違いありません。

 ところがさらに二日が経つと、金魚たちの病状は明らかに悪化しました。三匹の体には細かな泡粒が増え、最初に発症した一匹は水草にぐったりとひっかかってエラの動きさえ判然としないのです。まさか…。水槽をコンコンと弾いて刺激すると、金魚はよろよろと移動して力尽きたように砂に体を預けます。あんなに滅菌しても、金魚の体で菌は確実に増殖しているのです。私はペットショップに走って店員に相談しました。経緯と症状を聞いた店員は、それはたぶん水カビですね、と医師の様に冷静な表情でそう言って、

「お客さんは勘違いをされていますよ」

 驚愕の真実を教えてくれました。

 そもそも生きものの体には初めからたくさんの菌がいるのです。体だけでなく、砂にも水にも餌にも空気中にも目に見えない様々な菌がいて、生きものに抵抗力がある間は、菌に負けることなく健康を保っていられます。それが急激な環境の変化によって体調を崩すと、体が菌に負けて病気になるというのです。なるほど聞いてみれば、それは人間にも当てはまる自明の理でした。我々が病気になるのも、職場の異動、人間関係の悪化、不規則な生活、急激な気温の変化などで体調を崩し、抵抗力が落ちた時なのです。ということは、私は毎週せっせと水槽の大掃除をして、金魚にとって最も大切な、「水質」という環境を破壊していたことになります。さらにペットショップのお兄さんの話によると、砂や、ろ過材に繁殖して、水槽内の汚れや有毒物質を分解し、水質の浄化に貢献しているバクテリアを、大掃除はすっかり死滅させてしまいます。その上、カルキは抜いたとはいえ、総入れ替えをした水は、替える前の水とは温度が違います。わずかに水温が下がるだけでも、金魚の小さな体にとっては、たとえば私が裸でシベリアに置き去りにされるのと同じくらいに、致命的な負担になるのです。