金魚のいのち

平成29年01月08日(日)

「これを使ってみて下さい」

 手遅れかも知れませんけどね…と言われて渡された水カビ用の青い治療薬を水槽に入れて様子を見ましたが、やはり手遅れだったようです。水槽の底で動かない三匹の金魚の体には、日を追って白いカビが生えて、とうとう最初に発症した金魚が水面に浮きました。私の無知が招いた事態だと思うと、罪悪感でいっぱいです。それにしても生命とは、はかないものですね。あんなに元気に泳ぎ回って私を楽しませてくれた金魚が、今は見る影もない姿で浮いています。一匹…また一匹…と、金魚たちは後を追うように浮いて、二週間ほどで水槽は水と人工の水草だけになりました。

 こうして見る見る全滅した金魚たちでしたが、死ぬ瞬間まで私に、いのち…というものの何事かを教えてくれました。

 死んだ魚をそのままにしておく訳にも行かず、箸でつまみ出そうとすると、金魚はまだ生きていて、最後の力を振り絞るようにして体をよじります。目は濁り、口の周囲にまで白いカビを生やし、背びれも尾ひれも破れ団扇の様にぼろぼろになりながら、それでも金魚は箸を逃れて泳ごうとするのです。金魚はすぐに力尽きて水面に浮かび、ぴくりとも動きません。さぞ苦しいことでしょう。金魚は今、苦しみを味わうだけの時間を生きています。死は目前に迫っているのです。いっそつまみ出して楽にしてやろうと思うのですが…できません。まだ息のあるいのちを、積極的に絶つことはどうしてもできないのです。それは不思議な感情でした。釣った魚は生きたままザルに乗せ、静かになるのを待って串を打てるのに、わずかな期間でも愛情を注いで飼った金魚は殺せないのです。

 折しも私はある市から在宅死についての講演を依頼されていて、人間の終末期について考えているところでしたが、家で死ぬためには、臨終の苦痛を除去して安らかに生を終わらせる安楽死の合法化が不可欠であるという持論がにわかに揺らぎ始めました。金魚ですら生きているうちに強制的に命を絶つのには強い心理的抵抗があるのです。ましてや対象が人間であり、しかも長年情緒的な関わりを持った、かけがえのない存在となればなおさらでしょう。たとえ本人の意思が明確であったとしても、親族として死なせてくれという決断をするのは簡単ではありません。その上、安楽死は事実上親族ではなく、一定の手続きの下に権限を与えられた医師が手を下すのですから、他人の生命を絶つ立場に立たされた医師の負担感にも配慮しなければなりません。一方、目の前で展開する直視できない苦しみを放置するのも親族にとっては耐えられないことでしょう。

 切腹した武士を介錯するのと同じと考えたらどうだ?安楽死は苦しみからの唯一の救済だと思うが…。

 いや、切腹と現代人の終末期を同列に論ずるのには無理がある。武士には潔く死ぬという強固な意思と美意識がある。

 ということは自殺を図り、瀕死の状態で死なせてくれと訴えている人は安楽に死なせてもいいということか?

 助かる可能性があれば助けるべきだろう。助かったあとで、生きる希望を見出すことだってあるし、周囲はその方向で努力すべきだと思う。

 今、問題にしているのは、助かる可能性がない場合のことだよ。お前だって苦痛だけの終末期に置かれたら安楽な死を望むんじゃないのか?

 個人的に望むのと法的に認めることの間には質的な違いがあるよ。安楽死を社会的に認めたら、末期癌も交通事故も戦争の負傷者も、助からないと判断すれば命を絶っていいことになる。

 耐えられない苦痛の存在が条件だとしたら?

 耐えられないかどうかの判断は誰がする?苦痛なんて極めて個人的な感覚だぞ。それに一人の人間の生死には複数の人間の利害が関わっている。恣意的な安楽死は、本人の苦痛の除去という目的を超えた社会的影響を想定しなければならないだろう。