国民を食べさせるエネルギー

平成29年12月13日(水)

 紅葉の山々に囲まれた小高い丘の上にある自動車シートの製造工場が、創立五十周年を迎えたというので、祝賀会でお話をする機会を頂きました。福祉や権利擁護関係の団体からの講演依頼が多い中、民間企業のおめでたい席でお話をするとなると、いつもと勝手が違いましたが、笑ったあとで聴衆の人生観に何かしらの爪痕を残すような内容を準備して車を会場に走らせました。功労者の表彰が行われているのでしょう。通された控室に一定の間隔で拍手の音が聞こえて来ます。やがて控室がノックされ、

「もうすぐ式典が終わります。予定より少し早いですが、十分程度のトイレ休憩のあとで会場へご案内致します」

 スーツ姿の男性職員がそう言って出て行った直後に、一段と大きな拍手が鳴り止んで、縁日のように賑やかな集団が廊下をぞろぞろと一定方向に移動して行きました。その集団が再びがやがやと戻って来て静まり返った頃、私は会場に案内されました。紅白の幕で囲まれた大会議室に、隙間なく並べられた百五十脚ほどのパイプ椅子に座って、従業員たちが肩を寄せ合っています。最前列には胸にバラの花を付けた比較的年齢の高い役員たちが居住まいを正していました。講演の導入部分はあらかじめ考えていましたが、講師の紹介が終わって壇上に上がったとたんに、自分でも思いがけない言葉が口をついて出て来ました。

「私、実は今、感動しています。国民を食べさせているのは国家ではありませんね」

 役員たちの後ろにはOB席が何列か用意され、かつて工場で懸命にミシンを操った女性工員たちが、すっかり高齢者になって座っています。その後ろには、先輩たちに負けじと、来る日も来る日もシートを縫って年を取って行く様々な年齢の女性工員たちが続きます。最後尾には機械の管理や、製品の運搬や、事務部門を担当しているのでしょう。年齢のばらなばらな男性職員たちが居並んでいます。

「皆さんが性能のいいシートを作ると、それが売れて、売った収益が給料になる。そんな活動の集積で国民は食べているのだという当たり前のことに、私は今、改めて感動しているのです」

 偽らざる感慨でした。

 企業を含めた国民の所得から、税や保険料を徴収して国家が運営されていることは小学生でも知っていますが、公務員と教員を経験しているのみで、実際に生産現場の生々しい息吹の中に身を置いたことのない私は、半世紀もの間、車のシートを作り続けた人々の集団を前に、実感として、富を生み出しているものの正体を見たような興奮を覚えていたのです。漁師のように手応えのあるたくさんの顔が、パイブ椅子に座って私を見つめていました。制度を運用したり情報を操作したり知識を伝達したりして給料を得る人たちとは確実に違う質感の労働者の群れは、大地を踏みしめたような生活感に溢れていました。聞けば、工場周辺は過疎化が進み、今では地域住民の大半がこの会社で仕事を得て働いています。実に五十年間にわたって、会社はおびただしい人間を食わせて来たのです。

 創業者に思いを馳せました。

 ここに工場を建てようと思い立った創業者のエネルギーが、今もたくさんの人を食べさせている…と考えたとき、二年前の夏、福岡で訪問介護の会社を興したいと突然言い出した息子に、全力で反対したことを思い出しました。

「大きな会社に勤めてまだ一年余りだぞ。何でわざわざ起業しなければならないんだ?」

「大きな会社は決定に時間がかかるし、規模が大きい分、経営陣が保守的で、時流に乗った改革ができない。そんな気風が社員にも蔓延していて全体に覇気がない。おれは自分の実力を試してみたいんだよ」

「実力を試したい程度の動機で始めた事業が成功するほど世の中は甘くないぞ。何が何でも訪問介護事業を展開したいという止むにやまれぬ情熱に結果はついて来るんだ。そもそも何で福岡なんだ?」

「おれなりにリサーチしたんだよ。福岡は訪問介護ビジネスが手薄だから、きっとニーズがある。登録したヘルパー数に応じて利用者を増やして行けば、ランニングコストも小さい。訪問介護は初期投資が最も要らないビジネスなんだよ」

「介護というのは地域に密着した仕事だぞ。ケアマネから紹介されなきゃ利用者は来ない、突然東京からやって来て、土地勘もなく方言も分からない脱サラの若造に仕事が来ると思うか?お前が言うように、リスクもなく初期投資もなしで事業が成功するのなら、何で手薄なんだ?地元の人間だって同じこと考えるだろうが」

「…」

「それに軌道に乗るまでの家賃と生活費はどうするんだ?お前、今年の暮れには父親になるんだろう?生まれてくる子を、そんな不安定な状態で迎える気か?それとも二時間おきに泣いて手のかかる赤ん坊を妻一人に任せて、福岡で単身生活をするつもりか?二重生活は家賃も倍必要なんだぞ」

「今すぐという訳じゃないよ」

「生まれてしまえばもっと大変だ。赤ん坊が病気をしても遠方の福岡じゃ実家も頼れない。敷金に礼金に家賃に家財道具。蓄えはすぐに底をつく。妻が働くつもりなら、職場探しに保育園探し。頼る人も相談相手もない土地で、そんな計画がうまく行くと思うか?」

「資金は有利な国の融資制度があるけどさ、要するに、親父は反対なんだね?」