彼女、結婚してるのか?

平成31年05月17日(金)

 人がお互いのプライベートに踏み込まなくなって久しいような気がします。

「さっき、駅ですっごいデブの女の人を見てさ、改札を通れるかどうか心配になるくらい太ってるんだよ」

 とおばあちゃんが言うと、すかさず、

「あ!デブって言ったらダメなんだよ!言われた人が傷つくから」

 小学一年生の孫が厳しい口調で指摘しました。よくない言葉を使うと、そんなふうに学校で注意されるのでしょう。

 改札を通れないほどの体型の女性を想像して、

「その人、通れたの?改札…」

 と話の内容に関心を持つより先に、孫の思考は、デブという差別用語を使用したおばあちゃんを非難する方に向かったのです。

 同様に、

「かわいそうに、あんなに若いのに車椅子で、歩道橋が渡れないから大回りするんだね…」

 とおばあちゃんが言うと、

「あ!かわいそうって言ったらダメなんだよ!障害は個性なんだから」

 孫は鬼の首でも取ったような顔をしました。

 孫の関心は、歩道橋を作るとき車椅子の人のことは考えなかったんだろうかという疑問には向かわないで、かわいそうだと同情したおばあちゃんの立場を非難する方に向かったのです。

 小学校一年生からこの種の人権教育が行われています。

 人生のスタートラインで受ける思想教育の影響は小さくはありません。子供たちは日常生活において、自分の使う言葉で誰かを傷つけてはいないか、不愉快な思いをさせてはいないか、非難される可能性はないかと、高性能なセンサーを働かせて会話をしなければなりません。話しの内容よりも、人権という価値に照らして不適切な要素はないかという外形の方に神経を使うようになるのです。そして、自分が傷つける側に回ることに対する警戒は、傷つけられたと感じたときの憤りと表裏の関係になっています。


 ある学校の講義の中で、少子化の原因を考えさせたくて、学生にこんな質問をしました。

「我が国は、人口が維持できない程度にまで子どもの数が減っています。政府は子育て支援に力を入れて人口を増やそうと躍起になっていますが一向に効果は上がりません。理由は様々に分析されていますが、ここでは自分の身に置き換えて、実感として子供が増えない原因について考えて見たいと思います。まず、いまの世の中で、自分がこれから子どもを生むと仮定してみて下さい。さあ、何人欲しいですか?経済力、子育ての条件、将来設計…色々考えた上で手を挙げて下さい」

 子供なんて要らないと思う人、一人でいいという人、一人では寂しいから二人は欲しい人…と、ここまでで、クラスの半数程度が手を挙げました。ということは、残りの半数は三人以上欲しがっていることになります。人口維持という観点からは頼もしい限りです。ところが、三人欲しい人と聞いても手が挙がりません。四人欲しい人と尋ねても手が挙がりません。私はまさかと思いながらも五人以上欲しい人と質問しましたが、やはり手は挙がりませんでした。質問の趣旨をもう一度説明した上で、同じ質問を繰り返しましたが、やはり半数は手を挙げませんでした。ここに至ってようやく不穏な雰囲気を感じた私は、今度は教壇を降り、手を挙げなかった学生一人一人に、どうして手を挙げないのかと尋ねましたが、返って来た答えは衝撃的でした。

「私の友人は長年不妊に苦しんでいます。その辛さと切実さを知っている者としては、何人子供が欲しいかなどという無神経な質問には答えたくありません」

「私の姉は二度も流産しました。子供が欲しくてもできない悲しみを思うと、何人子供が欲しいかという先生の質問は、やはり配慮に欠けていると思います」

「私はご覧のように、もう出産する年齢を過ぎています。結婚もしていません。子供が何人欲しいかと聞かれるのには大変抵抗があります」

 内容はそれぞれでしたが、要するに少子化の原因を考えるという授業の目的よりも、私の質問そのものが人を傷つけていると憤慨していたのです。これらの反応は結局、

「あ!デブって言ったらダメなんだよ!言われた人が傷つくから」

 という孫の発想の範囲を超えませんね。

「あ!不妊の人に子供の話をしたらダメなんだよ!言われたー人が傷つくから」

「あ!流産した人に子供の話をしたらダメなんだよ!言われた人が傷つくから」

「あ!結婚していない人に子供の話をしてはいけないんだよ!言われた人が傷つくから」

「あ!車椅子の人や、母子家庭の人や、貧しい人がいるかも知れない場所では、そういうことを話題にしてはいけないんだよ!言われた人が傷つくから」

 極端に言えば、人を傷つけてはいけないという、どちらかと言えばマナーに属するような底の浅い人権教育が、互いのプライベートにはなるべく立ち入らないという、昨今の文化を作り上げる原因の一つをなしているのではないでしょうか。