鈴虫になったゴキブリ

作成時期不明

 生まれて間もないゴキブリの子どもにとって、一日に一度、両親と一緒に食べものを探しに出かけるのが何よりの楽しみでした。

 人目につかないように行動すること、部屋の隅を伝い、絶対に広い場所には出ないこと、万が一、人間に見つかって逃げる時には、直線ではなくてジグザグに進んで近くの物陰に身を隠すことなどなど、ゴキブリの子どもには覚えなければならないことがたくさんありました。


 その日も、いつものように人間の寝静まった真夜中を選び、細心の注意を払って台所に忍び込みました。おいしいごちそうがたくさんあって、ゴキブリの子どもはすっかり夢中になってしまいました。あまり夢中になりすぎて、人間の気配がしたのに気が付きませんでした。

 パッと明かりがつきました。

「逃げろ!」

 お父さんゴキブリが叫びました。

 物陰に逃げ込もうにも、突然の明かりに目がくらんで身動きができません。

 悪魔のような大きな黒い影がゴキブリの子どもを覆いました。

 見つかってしまったのです。

 もうだめだ…。

 目を閉じた瞬間に、ドスン!という大きな音がしました。踏みつぶされたのでしょうか。いえ、そんなはずがありません。踏みつぶされたのなら、自分でそんな音が聞こえるはずがありません。おそるおそる目を開けると、ああ…何ということでしょう。踏みつぶされたのはお父さんゴキブリでした。冷蔵庫の下に逃げ込んだお父さんゴキブリは、逃げ遅れたゴキブリの子どもを助けるために、人間の前に自ら体を投げ出したのでした。


 ゴミ箱に捨てられたお父さんゴキブリのなきがらに取りすがり、ゴキブリの子どもとお母さんゴキブリは、いつまでも泣き続けました。特にゴキブリの子どもは、お父さんゴキブリが自分の身代わりになって死んだのだと思うと悲しくて、涙があとからあとからあふれて止まりませんでした。泣きながらゴキブリの子どもの胸は悔しさで一杯になりました。

「ねえ、お母さん、お父さんは、殺されなくてはならないほど悪いことをしたの?」

 お母さんゴキブリは、ただ黙ってゴキブリの子どもを抱きしめました。

 お父さんゴキブリの死を悲しんで、いつの間にか集まってきた仲間たちも、ただ悔しそうに目を閉じるだけで、ゴキブリの子供の質問には答えようとはしませんでした。

 ついこのあいだ、大切な一人息子を同じように人間に踏みつぶされた母親ゴキブリがポツリとつぶやきました。

「仕方がないことなんだよ」

「どうして仕方がないの?せっかく生まれて来て、なんにも悪いことはしていないのに、どうしてボクたちはこんなに人間から嫌われるの?人間の食事を人間より先に食べてしまうのならともかく、なるべく残り物や捨ててあるものしか食べないようにしているのだし、第一、遠慮して姿さえ見せないように心がけているというのに、どうしてボクたちはこんなにびくびく逃げまわって暮らさなきゃならないの?」

 じっと話しを聞いていた年老いたハエが言いました。

「わしらの辞書で人間という項を引くと、世の中で一番自分勝手な生き物と書いてあるんじゃ。同じ虫でも、鈴虫のようにリーンとでも鳴けば、大切にカゴに入れて飼ってくれる。ホタルのように尻でも光れば、保護するための条例まで作ってくれる。じゃが、わしらハエやゴキブリは、何も芸がないばかりに、嫌われて殺されて損な話しさ。人間に嫌われちゃ生きてゆくことは難しい。こそこそと人目を忍んで暮らしたくなかったら、人間が喜ぶ芸でも覚えて好かれることだな」

 ハエは冗談半分で言いました。

 けれどもゴキブリの子どもは真剣でした。

 もっともな話しです。

 お尻を光らせることは無理でも、リーンと鳴くことぐらいはできそうな気がします。