9.はるかぜ(房子Ⅱシリーズ)

 翌日、陽子の携帯がメールを受信した。

 『はるかぜ』というグループホームがこの辺りでは一番評判がいいという。

「私、以前誘われて認知症予防の寸劇ボランティアに参加したことがあったでしょう?その時の指導者で、稲本さんという人が連絡を下さったの。稲本さんは認知症デイサービスの施設長だけど、以前はグループホームに勤めてた。職員を大切にしないホームの運営方針に反発して飛び出して、今はデイの運営のかたわら、認知症ケアの指導者をしている人だから、信頼できる情報よ」

 そう言えば陽子はスーパーの広場で、認知症の高齢者に高圧的に声をかける心無い通行人の役を演じたことがある。目立つことの嫌いな陽子が寸劇とは、妙な活動に加わったもんだと、あの時は思ったが、こうなると人のつながりの不思議さを思わざるを得ない。

「はるかぜかあ…。さわやかな名前だな。ここから三十分…。距離はちょうどいい。それに、むやみに薬を使わない方針というのが素晴らしいね」

 房子の故郷にはわずか二つしかなかったグループホームが、謙一と陽子の住む都会には百七十以上ある。ところが選ぼうにも情報がなかった。世は食べログや口コミの時代だというのに、福祉事業者の評判を知ろうとすると、公平を旨とするおおやけには、利用者の本音の情報を提供する仕組みがないのである。

 他の人からの情報も待ってみようという謙一の携帯にもやがて連絡が入った。

「え?はるかぜ!いや、実はついさっき妻のところにも同じホームを紹介するメールがあったので驚いたんだよ。うん、入居に当たって本人の生活歴を詳しく聞き取ってケアに活かしてるって?そんなホームが本当にあるんだなあ」

 入居して三か月。房子のホームでは本人の生活歴など聞かれたことがない。

 別ルートから同じ施設名が挙がった以上、迷うことはなかったが、二人は慎重だった。百聞は一見に如かず。見学をして、房子のホームのような淀んだ印象さえ受けなければ、恐らく評判は本物だろう。施設長に会って運営について説明を受ければ、人柄も分かるに違いない。

 二人は稲本を介して強引に約束を取りつけ、翌日の午後『はるかぜ』を見学かたがた、管理者に会うことにした。午後二時には房子の主治医に電話をしなければならない。その時間も見て、二人はゆとりを持ってマンションを出た。房子の人生が再び大きな曲がり角を迎えようとしている。

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