14.転居準備(房子Ⅱシリーズ)

 房子の転居は翌週の金曜日に決まった。

 謙一が主治医と直接対立してから、ちょうど十日目に当たる。考えてみれば異例の速さだった。

「母さん、足のむくみはどう?」

 謙一からの電話に、

「私、足なんて、むくんどるか?」

 自分の足なのに、房子には異変の記憶もない。

「陽子とも相談したんだけど、母さんが転んだり足がむくんだりした時には、俺たち、すぐに駆け付けたいと思うんだよ」

「今だってすぐに来られるんだろ?」

「今だと片道一時間半かかって、高速代が三千円を超す」

「そんなにするのか」

「日曜に陽子の友達で尾藤さんという女の人と一緒にお昼を食べただろ?その人が俺んちの近くで同じような安心アパートを経営していて、部屋が空いたから移らないかと言ってくれてるんだ」

「尾藤さん?覚えてないなあ…」

「そこならマンションから三十分だから、会いたくなったらすぐに会える。何より経営者が陽子の友達という点が安心なんだよ」

「近いのは嬉しいなあ」

「越しておいでよ。家族は近くに住む方がいい」

 それとも、どうしても今のアパートに居たいかい?と聞くと、

「お前の近くがいいに決まっとる」

 房子は謙一が思うほど故郷に未練はないらしい。というより、記憶の回路を寸断する認知症の刃は、謙一の近くに越せば故郷が遠くなるという論理の連続も遮断してしまったのかも知れない。

「そう言ってくれてよかった。母さんが近くになれば俺も安心して仕事ができる。こちらは雪も降らないし、デパートにも公園にも映画にも一緒に行ける。美味しい店もたくさんある。越して来たら楽しくなるぞ」

 金曜日に迎えに行くから、そのつもりでいてねと言って電話を切った。

 一連のやり取りを房子が覚えているはずはないが、転居のような大きな出来事をだまし討ちのような形で進めたくはない。房子が了解をしたという事実は謙一夫婦のためらいを緩和した。

「遠方にいては母の診察にも付き添えません。母も了解してくれましたので、来週の金曜日に私たちのところに連れて行きます」

 翌日、ホームの職員に転居の日取りを告げた。

 八十五歳の房子にとって、生まれて初めて故郷を離れるカウントダウンが始まった。

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