15.転居(房子Ⅱシリーズ)

 わずか三か月とはいっても、人間が一人居を移すとなると簡単ではなかった。入居に際して整えた簡易なタンスやテーブルは次の入居者に残し、早速必要になる衣類や食器のたぐいと、房子の両親の遺影を車に積んで引っ越しの準備を終えた。

「皆さん、お世話になりました」

 房子の挨拶に、

「息子さんのところに行けてよかったですね」

 職員は挨拶を返したが、残りの入居者は椅子から立ち上がろうともせず、遠い景色を眺めるような視線を送るだけだった。

 房子は後ろを振り向くことなく車に乗り込んだ。むしろ謙一と陽子の方が毎週通った平屋の白い建物を感慨深く振り返った。ここに移り住むに当たり八十五年の長きにわたって住み慣れたわが家への未練を乗り越えた房子が、今また故郷に対する執着を断ち切る。一つ屋根の下で年老いた順に人生を終える「三世代同居」というシステムを、経済成長の犠牲にした結末が、個人の晩年にこういう形で影を落としている。

「そこのお店で停めて」

 陽子の声で謙一は土産物店の前に車を停めた。

「お母さん、新しいアパートの皆さんにご挨拶の品を買いましょうよ」

 何が喜ばれるかなあ…と物色する二人の会話から事情を察した店のあるじが、

「房子さん、ホームを移られるのですか?」

 陽子にだけに聞こえるように囁いた。

 あるじは房子を知っている。

「ええ、私たちの近くに…」

「それはよかった。あそこ、薬漬けでしょう?」

「え?」

「うちの義父はボケちゃって、あそこに入れたら大人しくなった代わりに、たちまち心臓を悪くして市民病院で死にました」

「そうでしたか」

「余りにあっけなくて、あそこに入れた私たちが殺したような気になるでしょう?」

「そんな風にお考えにならない方が…」

「いえ、他にも色々聞くんですよ。あそこは薬で命が縮むって」

「そんな噂は知りませんでした」

「小さな町では差し障りますからね、みんなめったなことはしゃべりませんよ」

 それにしても年寄りに強い薬は毒だってことが医者には分からないのですかねえ…というあるじの言葉をよそに、房子が自分の好きな菓子の袋を手にひょこひょこと近づいて来た。

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