21.手腕(房子Ⅱシリーズ)(最終回)

 施設の利用者が、夕食を済ませ、自分の部屋で一息ついた頃、懐かしい我が家に無性に帰りたくなる現象を、俗に、夕暮れ症候群というが、

「房子さん、もう少しお部屋で謙一さんのことを聞かせて下さい」

 尾藤は巧みに謙一の話題をもちかけて、入居初日の房子の不安と淋しさの緩和に配慮した。

 一人息子のことならば、喜んで話してくれるに違いないという尾藤の予想は的中し、房子は促されるままに謙一の子供の頃のエピソードをとめどなく紹介した。直近の出来事は覚えていられないが、旧い記憶はよく保存されているのがアルツハイマー型認知症の特徴である。

「それじゃ房子さん、びっくりしたでしょう?大切な生地をばっさり切られたんですものね」

「だけど覆面は、小学生にしてはようできとった」

「怒らなかったのですか?」

「切ってしまったもん、𠮟ってもしようがない。大事にとっておいたスカート生地で作ったんやから、いい忍者になれよと言ってやった」

「それ謙一さんは覚えているでしょうか?」

「さあ…もう長いこと覆面は被っとらんなあ」

「まあ、房子さん、あはは」

 大笑いしながら、房子と尾藤の心の距離は急速に近づいて行く。

 人間は自分のプライベートを真剣に聴いてくれる人に対して無条件で親近感を持つ。親しい人が一人でもいるという事実は、知らない集団に初めて所属した人を孤独から救い出す。もちろんアルツハイマー型認知症の房子は、尾藤と交わした会話の内容も事実も忘れてしまうが、夕食時にお調子者の吉川に抱いた警戒心が、今も房子の心に漠然とした痕跡を残しているように、尾藤に対する親近感だけは蓄積されて、新しい環境に房子が適応する大きな支えになって行く。

 グループホームの職員体制は、夕食の片づけを済ませて遅番勤務の職員が帰ると、翌日の朝食までは、九人の利用者を常勤職員一人だけで看るのが通常であるが、管理者の尾藤は、常に勤務のローテーションから外れてフリーでいる。新規入居者の不安や、調子を崩した利用者の不穏に個別の対応ができるのは、ローテーションに組み込まれず、しかも認知症ケアの技術に長けた、フリーの職員の存在と手腕にかかっている。

「あら、もうこんな時間です。そろそろトイレを済ませてベッドに入りましょう」

 尾藤の言葉に素直に従って、激動の房子の一日は無事終了した。

終(最終回)

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