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ふじ枝の大正琴(04)
令和01年03月07日
ふじ枝は自転車に乗った。
ひと月前まではすぐ近くのスーパーへ歩いて買い物に出かけていたが、いつの頃からか、あからさまに来店を拒否されるようになった。
「吉田さん、お一人での来店は困ると申し上げています。ご家族の方とご一緒にお越しください…ね?」
ふじ枝に家族がいないことを承知の上で、店員は何度でもふじ枝を店の外へ連れ出した。
「放して下さい!私はここで買い物をしてはいけないんですか!ちゃんとおカネを払っているでしょう」
最初のうちは抵抗していたふじ枝だったが、居合わせた近所の知り合いも見て見ぬふりをすることを悟ると、顔見知りのいない隣町のスーパーまで自転車で買い物に出かけるようになった。ふじ枝にとって地域は、頼りになる場所ではなく、みんながふじ枝を遠巻きに監視する居心地の悪い場所だった。
「店長、来ましたよ、お刺身ばあさん」
店に入って来るふじ枝の姿を発見して、一番レジの康子が店長に連絡した。
「よし!分かった」
店長は、あらかじめ登録しておいた中部地域包括支援センターの柴田里美の携帯に電話した。
「もしもし、私、スーパー・ハヤカワの店長です。昨日ご連絡した認知症のお客様が、たった今、来店されました。私これから紺色のエプロンを着けて店の入り口付近でお待ちしていますので、すぐにお越しください」
こういう通報をするときは、なぜか秘密めいた声になる。
午前の訪問を終えて職場に戻る途中で店長からの電話を受けた里美は、
「分かりました。ちょうど近くにいます。自転車ですから…そう、五分もあれば着くと思います」
返事をすると、センターにその旨を報告し、自転車を反転させて、勢いよくペダルを漕いだ。
いつものように十個入りの卵パックと総菜のトレーをレジカゴに入れたふじ枝は、鮮魚コーナーを目指して歩いて行く。
スーパー・ハヤカワで紺色のエプロン姿の男性を見つけて駆け寄る柴田里美を、店長は挨拶もそこそこに一番レジに案内した。特売日なのだろうか、開店間もない時間帯なのに店内にはたくさんの客がいる。
「あの人です。今お刺身を選んでいるおばあさん」
康子の視線の先を、髪の毛をべったりと貼りつかせた小柄な女性が歩いて行く。スカートの裾からパジャマのズボンがのぞいている。
「あ、はい、分かりました」
里美はレジカゴを持って鮮魚コーナーに向かった。
警戒されないように近づかなくてはならない。そして、さりげない会話を交わさなくてはならない。名前や住所が聞き出せなくても、今回顔見知りになっておけば、次回の接触がし易くなる。しかし、そのさりげなさが難しい。
里美は買い物客を装うために、近くの商品を適当にレジカゴに入れた。