ふじ枝の大正琴(05)

令和01年03月09日

「ええっと…どれも美味しそうだけど、今日はどのお魚がお値打ちですかねえ…」

 すぐ傍で唐突に、独り言ともつかない声を聞いて振りむくと、白いブラウスの上に紺のカーディガンを羽織った三十代と思しき女性が鮮魚の冷蔵ケースを物色している。

 ふじ枝は身構えた。

 かつて通っていたスーパーで、ふじ枝が買い物をしていると、ふいに現れた店員に体よく店の外へ追い払われた。事実は忘れてしまっているが、そのときに味わった屈辱が警戒心となって蘇った。

「お近くにお住まいですか?」

 女性が笑顔で尋ねたが、必然性のない作り笑いが、却ってふじ枝の警戒心を刺激してしまう。

「何ですか、あなた」

 ふじ枝が離れようとすると、行く手に回り込み、

「よくここでお見かけするものですから、ご近所の人かと思いまして…」

 女性はふじ枝の顔を覗き込んだ。

 服装から察するに、専業主婦ではなさそうである。平日のお昼前だというのに、スーパーで買い物をしているのは不自然だった。

 ふじ枝は返事をしないでレジカゴに刺身を入れると、

「私、生命保険は嫌いですから」

 逃げるように刺身醤油の棚に移動した。

「保険の勧誘ではありませんよ。ちょっとお話しがしたいのです」

 一番レジに向かうふじ枝を、里美は小走りに追いかけた。

 レジでふじ枝の後ろに並ぶと、かすかに雑巾のような臭いがした。里美の後ろにも何人かの客が列を作ったので、さすがにここで話しかけるのはためらわれた。

 請求金額を正確に支払うのが困難なのだろう。ふじ枝は一万円札を出してお釣りをボケットに突っ込むと、後ろを振り向かないで店を出た。里美は商品の入ったままのレジカゴを康子に渡して目配せをすると、ふじ枝に続いて店を出た。

 接触はうまく行かなかったが、せめて跡を付けて住所だけは突き止めたい。


 地域包括支援センターは、俗に包括と呼ばれ、おおむね中学校区に一つずつ設置されていて、広く介護にまつわる相談に応じている。市町村が設置主体であるが、運営は社会福祉法人や医療法人などに委託されている場合が多い。柴田里美が所属する中部包括は、社会福祉法人である社会福祉協議会が運営していた。

 その日、午後四時過ぎに職場に戻った里美を待ち構えていたように、

「柴田さん、お刺身ばあさんとの接触はうまく行きましたか?」

 細川センター長が聞いた。

 細川自身、社会福祉士の資格を持っていて、センターの責任者であると同時に、三人の専門職の良き助言者でもあった。

「はい。警戒が強くてスーパーでの接触は困難でしたので、せめて住所を確認しようと思い、自転車で後を追いました」

 里美はスーパー・ハヤカワを出てからの顛末を報告した。

 ふじ枝は小さな体に似合わず、かなり勢いよく自転車を漕いで、大小いくつかの交差点を左右に曲がり、迷わずに自宅に着いた。地理的な見当識が良好に保たれているということは、徘徊の心配は今のところない。家は木造二階建てで、狭いながら門扉から玄関までの左右の空間は前庭になっている。ところが住所は、

「うちの管轄をわずかに越えているのです」

「西部ということですか?」

「はい。ついでですから西部包括に寄ってみました。あそこは社会福祉協議会ではなく医療法人の運営ですから、ちょっと敷居が高かったですが…」

 里美の報告は続く。

 名前は吉田ふじ枝。年齢は八十二歳。一人暮らしの認知症高齢者として支援の対象になって既に二年が経っていた。ゴミ出しのルールが守れない、町内の役が果たせない、スーパーでのトラブルが絶えないなどの問題で、民生委員から包括に情報提供があり、まずは信頼関係を築くべく、人を変え方法を変えて様々に接触を試みたが、頑なな拒否に遭って受診にさえ至っていない。

「繰り返されるトラブルにたまりかねたスーパーがふじ枝さんの来店を拒んだので、ひと月ほど前からうちの管轄のスーパー・ハヤカワに足を伸ばしたようです」

「確かに、認知症に理解のある店の方がまだ圧倒的に少ない現状ですからねえ…。で、現在西部包括はどんな支援をしているのですか?」

「打つ手がなくて、様子を見るにとどめているそうです」

「生活歴は把握できましたか?」

「はい。ふじ枝さんは…」

 里美は訪問記録を開いて、聞き取った内容を読み上げた。

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