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ふじ枝の大正琴(06)
令和01年03月14日
市役所を定年まで勤め上げたふじ枝は、地域のボランティアなどで活躍していたが、三年前に夫が心筋梗塞で急死したとき、夫の希望通り、ひっそりと無宗教の家族葬にしたのが災いした。夫は教員だったので、恩師の訃報を伝え聞いてばらばらと弔問に来る教え子たちへの対応のため留守にできず、何か月かは外に出ないで引きこもったような生活が続いた。弔問の度に聞かされる夫の思い出話しに付き合っているうちに、時間的な見当識と記憶の混濁が始まったようで、次第に会話はかみ合わなくなり、剣呑さが目立つようになった。
「先生が突然亡くなられて、奥様もさぞお寂しいでしょう」
異口同音に繰り返される慰めの言葉に、
「夫が亡くなったのが、そんなに面白いのですか!」
ふじ枝が怒りを露わにしたという話は、またたくまに教え子たちを超えて、町内にまで広がった。
やがて弔問客は絶えたが、近所との付き合いも絶えた。
ゴミは各戸収集なので、周囲の様子を見て慌てて出したりしているが、分別は不十分なことが多い。食材ではなく、総菜やパックのご飯を買うようになった頃からスーパーとのトラブルも始まった。子どものいないふじ枝にとって、身内といえば長野に住む二歳年下の妹だけだが、車椅子生活であり、距離的にも年齢的にも支援は期待できない。
「…と、まあ、こんな状況です」
「無宗教の家族葬ですか…いえ、うちにも九十歳になる祖母が入院中ですので、もしものときにはそうしようかと夫と話しているところです」
保健師の佐久間英代が家族葬に関心を持った。
「しかし、無宗教だと、僧侶も来ない訳でしょ?葬儀には何人集まったのですか?」
細川はセンター長として、ふじ枝の状況や考え方をできるだけ詳しく理解しておきたい。
「亡くなった夫は九州出身の次男坊で、実家の長男とは疎遠です。ふじ枝さんの妹は長野県で車椅子生活ですから葬儀には参加していないと思います。結局、墓も買わなかったようですよ」
「まあ、そんな家族状況では、墓守りをする人もいませんからねえ…ということは、家族葬といっても、参列者はふじ枝さん一人きりということじゃないですか」
細川は、小ぢんまりした家族葬用のセレモニーホールで、夫の遺体を見守って夜を明かす、年老いた小柄な女性の姿を想像して胸がつぶれる思いがした。
「無宗教でなければ、葬儀のあと間隔を置いて、初七日だ、四十九日だと宗教行事が続きますから、僧侶や弔問客の対応に追われるうちに遺族の喪失感は少しずつ癒えて行きます。面倒で費用もかかりますが、長く続いた習俗にはそれなりの意義があるのかも知れませんね」
山内達也の社会福祉士らしいコメントに、佐久間保健師がしきりに頷いた。
「いずれにしても、処遇困難な認知症高齢者が一人暮らしをしているということですね。しかも依頼はうちの管内のスーパーからですが、本人は西部包括の管轄に住んでいる…やはり、うちの支援対象にするのは難しいでしょう」
「しかし、西部が手詰まりなら、うちが取り組んでみてもいいのではないかと思いまして」
「ん?」
中部が扱うことについては、西部の担当者である鈴村綾子の了解を取って来たと里美は言う。里美は、専門職として、ふじ枝への接触に失敗したことが残念なのだ。それは好ましいことだと細川は思った。テキストを読むだけでは認知症ケアの技術は習得できない。技術というものは、スポーツと同様に、試行錯誤の実践の中でしか向上しないものなのだ。
「分かりました。西部の所長は親しくしています。正式に私から了解を取りましょう」
細川センター長は受話器を取り上げた。