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ふじ枝の大正琴(08)
令和01年03月18日
「市民相談室から包括に連絡が行ったのでしょう、確かに言葉は丁寧ですよ。丁寧ですが、私、包括から随分叱られましてねえ…」
原田はときおりコーヒーをすすりながら話を続けた。
「初期の認知症というのは、日常的に物忘れが増えて、脳で何か良くない変化が進行しているという不安を抱いているものなんですってね。知りませんでした。不安だからこそ、他人から認知症扱いをされることには抵抗がある。そういう本人の気持ちを理解して接触しなければならないのに、私は無知で強引でした。認知症は脳の機能が低下して、子供のようになっているのだと安易に考えていました。今思えば、一面識もない私が、民生委員であるというだけで、何か困っていることはないかとか、ごみ出しを手伝おうとか、健康診査に行こうとか、親のような年齢の女性に頻繁に働きかけたのですからね。ふじ枝さんから見たら不自然で不愉快なことだったでしょう。認知症カフェに誘ったのが致命傷でした。チラシにも認知症カフェと書いてあるし、会場にも認知症カフェという大きな看板が出ています。だから当然、使ってもいい言葉だと思っていましたが、ふじ枝さんには抵抗があったのでしょうね。警戒を超えて拒否されるようになりました。拒否は包括の職員にも及び、初期集中チームを編成して対応しようとしましたが、誰が出向いてもうまく行きません。半年ほど関わって、門扉から中に入れてもらった人は一人もいませんでした」
「それ以来、西部包括では様子を見る程度にとどめているという訳ですね?」
「全て私が原因です」
「いえ、ご自分を責めないで下さい。認知症対応マニュアルにもそんなふうに接触するように書いてありますし、熱心になればなるほど誰もが原田さんと同じように対応すると思います。現に私も同じ所でつまずいています。ところで、ふじ枝さんに受診歴はないのですか?」
「本人に接触ができない状態ですから、受診歴も尋ねることができません」
「しかしふじ枝さんの年齢なら後期高齢者医療ですよね。保険者である都道府県に照会すれば、請求関係のデータから受診の有無や頻度は分かるのではありませんか?」
「包括が試みましたが、個人情報の壁があるとかで、大変面倒なことになったみたいです」
「え?こんな場合も個人情報ですか…。生命、身体、財産の保護が目的であれば、法的には情報提供が許されているはずですが…」
「生命、身体の保護が目的であるということと、情報提供について本人の同意が得られないことを明記して、文書で照会しなければならないらしく、それがまあ面倒なのですね。それに、たとえ情報が得られたとしても、認知症の診断も治療も受けていないことは想像がつきますから、結局そのままになっています」
「そうですか…確かにかかりつけの医療機関があれば、そこからも包括に通報があるはずですしね」
受診はしていないと考えてよさそうですねと言いながら、里美は、残りのコーヒーを飲み干した。原田に会って一時間が経っている。里美は、張り切って登ろうとした山の険しさを改めて知ったような気がした。それにしても単身の認知症高齢者という山には、なかなか登り口が見つからない。
その夜、山内達也は『集いの家』にいた。
住む人を失った戸建ての民家を利用して、『集いの家』という名称で認知症対応型通所介護事業所が開設されて八年になる。家に居れば終日を無為に過ごしてしまうか、外出して家に帰れなくってしまう認知症高齢者を送迎して、食事をさせ、入浴をさせ、刺激のある一日を提供する介護保険法上の、いわゆるデイサービスである。本人の認知症の進行防止はもちろんであるが、家族がいる場合は、出口の見えない家庭介護の閉塞感から定期的に家族を解放する機能を果たしている。
十二人の利用者をそれぞれの家庭に送り届け、日誌を書き、請求に必要な入力を済ませ。職員が帰った午後六時半頃になると、『集いの家』には週に一度、医療や福祉の関係者が集まって稲本正和を待つ。『集いの家』の相談員の稲本は、高い対人援助技術を認められ、関係機関の有志に請われる形でコミュニケーションの演習を主催している。中部地域包括支援センターの社会福祉士である山内達也は、稲本に演習の開催を求めたメンバーの一人だった。
「さあ、定刻になりました。今月は、四十分間、一対一のインタビューの訓練を続けて来ました。今回で最後のセッションになりますね。聴く側と、聴かれる側、それぞれ経験していないメンバーがグループに一人ずつ残っているはずです。あとの二人はいつものように良い点も悪い点も含めて、インタビューの中で、印象的なやりとりを具体的に記録して下さい。それをもとに話し合います。観察こそ大切な演習であることを忘れないようにして下さいね。それでは始めましょう」
稲本が参加者にそう言おうとすると、
「あの…」
山内達也が手を挙げた。
「今回、私はインタビューを受ける役割ですが、インタビューをするはずのメンバーが欠席されました」
「そうですか…」
稲本はほんの一瞬考えて、
「それじゃ、私が入りましょう」
軽々とそう答えて参加者を驚かせた。
指導者が直接実技を見せる機会は初めてだった。